林家三平_(初代)
と こん平
はやしや さんぺい 林家三平_(初代) |
初代 林家 三平(しょだい はやしや さんぺい、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。本名は海老名 泰一郎(えびな やすいちろう)。旧名は海老名 栄三郎(えびな えいざぶろう)。落語協会理事。東京市下谷区(現東京都台東区)根岸出身。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。 |
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三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。
圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードである。
なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。
落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。
だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。
三平は落語家以外にも林家ペー・林家パー子や林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいる事を大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。
これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。
三平が逝去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である7代圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた。
また7代圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。
そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。
そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。
既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。
※なお、初代三平の死後は、俳優業に転じていた一番弟子の珍平、元々が他の一門からの移籍でなおかつ既に真打の身であった三升家勝二、夫婦として漫談に専念していたペー・パー子およびライス・カレー子、東京演芸協会所属のペタ子・英平を除く全ての弟子が、そのまま二番弟子林家こん平の門下に直った(大平の廃業時期は不明)。
圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードである。
なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。
落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。
だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。
三平は落語家以外にも林家ペー・林家パー子や林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいる事を大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。
これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。
三平が逝去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である7代圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた。
また7代圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。
そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。
そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。
既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。
※なお、初代三平の死後は、俳優業に転じていた一番弟子の珍平、元々が他の一門からの移籍でなおかつ既に真打の身であった三升家勝二、夫婦として漫談に専念していたペー・パー子およびライス・カレー子、東京演芸協会所属のペタ子・英平を除く全ての弟子が、そのまま二番弟子林家こん平の門下に直った(大平の廃業時期は不明)。
2016/5/17(火)



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