アントニオ猪木
と リング
アントニオ いのき アントニオ猪木 |
アントニオ猪木(アントニオいのき、本名: 猪木 寛至〈いのき かんじ〉、1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー・実業家・政治家。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。複数の結婚歴と離婚歴があり(4回結婚している)、二番目の妻は女優の倍賞美津子である。倍賞との間に娘が一人いる。1991年にイラクのシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」である。ただし、ワシントン・ポストによると本人は仏教徒とも自認する。 プロレスラーとしては新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。政治家としては参議院議員(2期)、スポーツ平和党代表、次世代の党国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気にする会最高顧問、同代表などを歴任。 |
![]() |
![]() |
![]() |
1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。
しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。
1989年(平成元年)2月22日、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。
猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
1981年(昭和56年)8月6日、マスクド・スーパースターと賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチで対戦、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
1982年(昭和57年)11月4日、国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。
1983年(昭和58年)5月27日、第1回IWGP決勝リーグ戦で前田明と唯一のシングル対戦、フォール勝ち。
1983年(昭和58年)6月2日、第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。
1983年(昭和58年)11月3日、維新軍との4対4綱引きマッチで谷津嘉章と対戦、フォール勝ち。
1984年(昭和59年)6月14日、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。
1985年(昭和60年)4月18日、ブルーザー・ブロディと初対戦、両者リングアウト。
1985年(昭和60年)12月12日、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳&木村健吾と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗退。
日本プロレス時代にカール・ゴッチから体得した技。
ストロング小林戦で放ったときは勢いがつきすぎてブリッジの際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になった(この時のジャーマンはオールスタープロレスリングで必殺技として収録されている)。
同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌 : アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。
B面には歌詞(作詞:なかにし礼)をつけた「いつも一緒に」(歌:倍賞美津子)がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。
東京スポーツは "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。
「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
ソビエト連邦から勇利アルバチャコフ・オルズベック・ナザロフをはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムに預け「映画『ロッキー4』の世界を現実化させる」と謳い、日本でプロデビューする道を拓いた。
現在は薬師寺ボクシングジム後援会名誉会長として薬師寺保栄を支援している。
同時にソ連のアマチュアレスリングのトップ選手サルマン・ハシミコフ・ビクトル・ザンギエフなども新日本プロレスでプロデビューさせた。
湾岸戦争前夜にイラクにおいて行ったイベントにより、人質状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。
なお、北朝鮮でもイベント「平和の祭典(リック・フレアーと対戦し勝利を収めている)」を開催した。
翌1996年(平成8年)春、自身は落選し前議員ながら崔鉄洙を協栄ジムからプロデビューさせる道を拓いた。
猪木は第8代自民党総裁・清和政策研究会初代会長の福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で第19代自民党総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。
二階堂進は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも務めていた。
1985年(昭和60年)、新国技館(両国国技館)の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(IWGPリーグ戦第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
いわゆる「猪木スキャンダル」によって、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選する。
猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。
ただし成功を収めたものはほとんど無い。
数多くの事業の大半はブラジルに関係することが多く、アントン・ハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進めることに対して美津子夫人(当時)は新間寿に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。
下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。
かつて「さんまのまんま」に出演した際、明石家さんまに対して「さんまさん預金いくらあるの?うまい儲け話があるけど投資してみない?」と誘っていたが、さんまはやんわりと拒否している。
スペアリブのレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。
そのほかにも「アントンマテ茶」やスナック菓子「アントンナッツ(ひまわりナッツ)」を販売。
ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。
日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、デビュー前から給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。
例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。
しばしば公衆の面前で殴られて恥をかかされた経験や日常的に「あご」「こじき野郎」と罵られた事実も後年に伝わっている。
それでも力道山が死去する前日に参加していた宴席に呼び出された際、元横綱・前田山(当時既に引退して年寄・高砂となっていた)が猪木の飲みっぷりを見て器の大きさを評したその横で力道山が嬉しそうな顔で頷いた姿を見て「自分への期待が初めて分かった。
あの顔を思い出すと、それまでの恨みがすべて晴れた」と感じたといい、「オレは勝手に、あの時の師匠の顔は『今後のプロレス界を頼んだぞ』という遺言というか、メッセージだったと受け止めている」とまで受け止めるようになった。
過去にテレビ番組「とんねるずのハンマープライス」内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。
なお「ハンマープライス」で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である(リングネームは「ゾンビー諸富」)。
「延髄斬り」は海外マットでも''enzuigiri''と呼称され、名詞として定着している。
猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジやグリーンのショートタイツを着用していたこともある。
新日本プロレス時代の1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で師:力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあった。
猪木のもう一つのトレードマークに「赤いタオル」がある。
これは現役時代、リングガウンを着る際に赤いタオルを首に巻いていたことによるもの。
その名残か、プロレスを引退した後の猪木は首に赤いマフラー(ストール)を巻いて行動することが多く、すっかりおなじみのスタイルになっている。
なお試合以外で一般人に初めてビンタを見舞った相手は当時テレビ朝日アナウンサーの佐々木正洋である。
1990年2月10日東京ドーム大会において、アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋戦の試合前の控室で、『ワールドプロレスリング』のリポーター担当として「もし負けるということがあると、これは『勝負は時の運』という言葉で済まないことになりますが」と質問した佐々木に対して激怒し、「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」と言った後にビンタを見舞ったのが最初であると言われている。
しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した(詳細についてはIWGPリーグ戦の項を参照)。
1989年(平成元年)2月22日、両国国技館での長州力とのシングルマッチで完璧なピンフォール負けを喫した。
猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。
1981年(昭和56年)8月6日、マスクド・スーパースターと賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチで対戦、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。
1982年(昭和57年)11月4日、国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)と1対3変則マッチで対戦、寺西、浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。
1983年(昭和58年)5月27日、第1回IWGP決勝リーグ戦で前田明と唯一のシングル対戦、フォール勝ち。
1983年(昭和58年)6月2日、第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。
1983年(昭和58年)11月3日、維新軍との4対4綱引きマッチで谷津嘉章と対戦、フォール勝ち。
1984年(昭和59年)6月14日、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦や長州が乱入するもののリングアウト勝ち。
1985年(昭和60年)4月18日、ブルーザー・ブロディと初対戦、両者リングアウト。
1985年(昭和60年)12月12日、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳&木村健吾と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗退。
日本プロレス時代にカール・ゴッチから体得した技。
ストロング小林戦で放ったときは勢いがつきすぎてブリッジの際に足が一瞬浮き上がり、首だけで身体を支える形になった(この時のジャーマンはオールスタープロレスリングで必殺技として収録されている)。
同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌 : アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。
B面には歌詞(作詞:なかにし礼)をつけた「いつも一緒に」(歌:倍賞美津子)がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。
東京スポーツは "レスラー・猪木" と "参議院議員・猪木" で扱いを分けていた。
「猪木」と呼び捨ての記事にした場合はレスラー・アントニオ猪木、「猪木さん」「猪木氏」と書いた場合は参議院議員・猪木寛至についての記事。
ソビエト連邦から勇利アルバチャコフ・オルズベック・ナザロフをはじめとするアマチュアボクシングのトップ選手を親交の深い金平正紀率いる協栄ボクシングジムに預け「映画『ロッキー4』の世界を現実化させる」と謳い、日本でプロデビューする道を拓いた。
現在は薬師寺ボクシングジム後援会名誉会長として薬師寺保栄を支援している。
同時にソ連のアマチュアレスリングのトップ選手サルマン・ハシミコフ・ビクトル・ザンギエフなども新日本プロレスでプロデビューさせた。
湾岸戦争前夜にイラクにおいて行ったイベントにより、人質状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献。
なお、北朝鮮でもイベント「平和の祭典(リック・フレアーと対戦し勝利を収めている)」を開催した。
翌1996年(平成8年)春、自身は落選し前議員ながら崔鉄洙を協栄ジムからプロデビューさせる道を拓いた。
猪木は第8代自民党総裁・清和政策研究会初代会長の福田赳夫に可愛がられ、福田の実弟の福田宏一が猪木の格闘家としての後援会会長を務め、また福田の愛弟子で第19代自民党総裁・清和会第4代会長森喜朗とも親交が深い。
二階堂進は日本プロレスリングコミッション(新日本プロレス・国際プロレス)のコミッショナーも務めていた。
1985年(昭和60年)、新国技館(両国国技館)の新日本プロレス使用を、前年の蔵前国技館でのファンの暴動騒ぎ(IWGPリーグ戦第二回大会決勝戦の項を参照)から相撲協会が貸し出しを渋った際には、仲介の労をとった。
いわゆる「猪木スキャンダル」によって、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選する。
猪木の旺盛な野心はリング内に収まらず、多くの事業に挑戦している。
ただし成功を収めたものはほとんど無い。
数多くの事業の大半はブラジルに関係することが多く、アントン・ハイセルに私財を投げ打ってまで事業を進めることに対して美津子夫人(当時)は新間寿に「なぜそこまでしてブラジルに拘るのか」と聞いた程である。
下記のように、猪木はプロレスだけに止まらず、様々な事業に手を広げているが、本人は「(事業欲が旺盛であった)力道山と祖父の影響が大きい」と述べている。
かつて「さんまのまんま」に出演した際、明石家さんまに対して「さんまさん預金いくらあるの?うまい儲け話があるけど投資してみない?」と誘っていたが、さんまはやんわりと拒否している。
スペアリブのレストランチェーン「アントンリブ」を展開する他に、健康食品などを販売していた。
そのほかにも「アントンマテ茶」やスナック菓子「アントンナッツ(ひまわりナッツ)」を販売。
ワールドプロレスリングの番組内で古舘伊知郎アナウンサーが宣伝したが、販売実績は振るわなかった。
日プロ入門当初、ジャイアント馬場は付き人を経験せずにすぐにアメリカ遠征に出され、デビュー前から給料も出ていたという完全に特別扱いだったが、猪木はその全く正反対で、力道山からはまるで目の仇のように厳しく育てられた。
例えば、力道山にリングシューズを履かせる際、ちょっとした紐の掛け違いでも殴られたり蹴飛ばされたりしたほどであった。
しばしば公衆の面前で殴られて恥をかかされた経験や日常的に「あご」「こじき野郎」と罵られた事実も後年に伝わっている。
それでも力道山が死去する前日に参加していた宴席に呼び出された際、元横綱・前田山(当時既に引退して年寄・高砂となっていた)が猪木の飲みっぷりを見て器の大きさを評したその横で力道山が嬉しそうな顔で頷いた姿を見て「自分への期待が初めて分かった。
あの顔を思い出すと、それまでの恨みがすべて晴れた」と感じたといい、「オレは勝手に、あの時の師匠の顔は『今後のプロレス界を頼んだぞ』という遺言というか、メッセージだったと受け止めている」とまで受け止めるようになった。
過去にテレビ番組「とんねるずのハンマープライス」内で素人と対戦したり、力道山メモリアル内で滝沢秀明と対戦している。
なお「ハンマープライス」で猪木との試合権を購入したのは諸富祥彦明治大学文学部教授である(リングネームは「ゾンビー諸富」)。
「延髄斬り」は海外マットでも''enzuigiri''と呼称され、名詞として定着している。
猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジやグリーンのショートタイツを着用していたこともある。
新日本プロレス時代の1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で師:力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあった。
猪木のもう一つのトレードマークに「赤いタオル」がある。
これは現役時代、リングガウンを着る際に赤いタオルを首に巻いていたことによるもの。
その名残か、プロレスを引退した後の猪木は首に赤いマフラー(ストール)を巻いて行動することが多く、すっかりおなじみのスタイルになっている。
なお試合以外で一般人に初めてビンタを見舞った相手は当時テレビ朝日アナウンサーの佐々木正洋である。
1990年2月10日東京ドーム大会において、アントニオ猪木&坂口征二vs橋本真也&蝶野正洋戦の試合前の控室で、『ワールドプロレスリング』のリポーター担当として「もし負けるということがあると、これは『勝負は時の運』という言葉で済まないことになりますが」と質問した佐々木に対して激怒し、「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」と言った後にビンタを見舞ったのが最初であると言われている。
2016/5/17(火)



スポンサードリンク
アントニオ猪木 と デビッド・シュルツ
アントニオ猪木 と ジェシー・ベンチュラ
アントニオ猪木 と ワフー・マクダニエル
アントニオ猪木 と スーパースター・ビリー・グラハム
アントニオ猪木 と レッド・ピンパネール
アントニオ猪木 と 従四位 旭日中綬章
アントニオ猪木 と キングコング・バンディ ボディスラム
アントニオ猪木 と ブラックジャック・マリガン