アントニオ猪木
と プロレス夢のオールスター戦
アントニオ いのき アントニオ猪木 |
アントニオ猪木(アントニオいのき、本名: 猪木 寛至〈いのき かんじ〉、1943年2月20日 - )は、日本の元プロレスラー・実業家・政治家。神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。複数の結婚歴と離婚歴があり(4回結婚している)、二番目の妻は女優の倍賞美津子である。倍賞との間に娘が一人いる。1991年にイラクのシーア派聖地カルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」である。ただし、ワシントン・ポストによると本人は仏教徒とも自認する。 プロレスラーとしては新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。政治家としては参議院議員(2期)、スポーツ平和党代表、次世代の党国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気にする会最高顧問、同代表などを歴任。 |
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* 5月10日、元NWA世界ヘビー級王者のジャック・ブリスコを破り、NWFヘビー級王座を防衛。
* 8月26日、プロレス夢のオールスター戦でジャイアント馬場と組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンと対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。
* 11月1日、元NWA世界ヘビー級王者のダスティ・ローデスに反則勝ち、NWFヘビー級王座を防衛。
「延髄斬り」は海外マットでも''enzuigiri''と呼称され、名詞として定着している。
袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されていて、馬場の付き人をしていた大仁田厚は「猪木さんは馬場さんに挑発を繰り返していたじゃないですか でも、馬場さんの前に来たときに、ちゃんと一礼して『お疲れさまです』と言ったのは忘れられない」と語るなど、公私は別にしていた。
渕正信は、1979年の「プロレス夢のオールスター戦」の控室で、両者がゴルフの話題で談笑していたことを証言している。
和田京平は、ホテルで偶然会ったときには馬場に猪木は小走りで近づき挨拶をしたと言い「公では仲は悪いことになってたし、馬場さんも相当、猪木さんに悪口を言われていたでしょ だからあまりに和気藹々で驚いた。
」と語り「我々には分からない兄弟のような信頼関係があったと思う 」と続けた。
プライベートでは「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合う仲であった。
馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。
また、猪木が自らのタニマチであった佐川清を馬場に紹介し、佐川宅を二人で訪れて統一コミッション設立に向けた計画を話し合うなど、利害が一致する場合は両者は積極的なビジネス関係を結んでいた。
「プロレス夢のオールスター戦」の開催が危ぶまれた際、東京スポーツと二階堂進コミッショナーの話し合いにより、次善の策としてBI砲の復活を決定、そして晴れてオールスター戦開催の正式発表にこぎつけた。
正式発表後の猪木と馬場は衝突することもなく、お互いを尊重するコメントを連発 猪木に至っては「雰囲気を掴むためにオールスター戦前に全日本プロレスのリングに上がろうかな」とコメントし、馬場も「次のシリーズからでもどうぞ」と応えるなど、和気藹々としたムードだった。
猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジ、黄色、赤、グリーンのショートタイツを着用していたこともある。
新日本プロレス時代にも茶色、1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で、師であった力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあり、この時のロングタイツはドン荒川のものを借りたという説がある。
* 8月26日、プロレス夢のオールスター戦でジャイアント馬場と組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンと対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。
* 11月1日、元NWA世界ヘビー級王者のダスティ・ローデスに反則勝ち、NWFヘビー級王座を防衛。
「延髄斬り」は海外マットでも''enzuigiri''と呼称され、名詞として定着している。
袂を分かってからジャイアント馬場を執拗に敵視し挑発してきたが、私生活ではホテル(キャピトル東急など)で馬場に会った際、「どーもどーも」と笑顔で握手に行き食事に勝手に同席した上、会計を馬場にまかせて去っていったなどの逸話が残されていて、馬場の付き人をしていた大仁田厚は「猪木さんは馬場さんに挑発を繰り返していたじゃないですか でも、馬場さんの前に来たときに、ちゃんと一礼して『お疲れさまです』と言ったのは忘れられない」と語るなど、公私は別にしていた。
渕正信は、1979年の「プロレス夢のオールスター戦」の控室で、両者がゴルフの話題で談笑していたことを証言している。
和田京平は、ホテルで偶然会ったときには馬場に猪木は小走りで近づき挨拶をしたと言い「公では仲は悪いことになってたし、馬場さんも相当、猪木さんに悪口を言われていたでしょ だからあまりに和気藹々で驚いた。
」と語り「我々には分からない兄弟のような信頼関係があったと思う 」と続けた。
プライベートでは「馬場さん」「寛ちゃん」と呼び合う仲であった。
馬場も挑発には乗らなかったが(そもそも馬場は「猪木をライバルと思ったことはない」と生涯語っていた)、新日本のNWA加盟に対して妨害工作を行うなど、内心ではかなり猪木を意識していたと考えられる。
また、猪木が自らのタニマチであった佐川清を馬場に紹介し、佐川宅を二人で訪れて統一コミッション設立に向けた計画を話し合うなど、利害が一致する場合は両者は積極的なビジネス関係を結んでいた。
「プロレス夢のオールスター戦」の開催が危ぶまれた際、東京スポーツと二階堂進コミッショナーの話し合いにより、次善の策としてBI砲の復活を決定、そして晴れてオールスター戦開催の正式発表にこぎつけた。
正式発表後の猪木と馬場は衝突することもなく、お互いを尊重するコメントを連発 猪木に至っては「雰囲気を掴むためにオールスター戦前に全日本プロレスのリングに上がろうかな」とコメントし、馬場も「次のシリーズからでもどうぞ」と応えるなど、和気藹々としたムードだった。
猪木のトレードマークは、「ストロングスタイル」を表す黒のショートタイツであったが、日本プロレス時代にはオレンジ、黄色、赤、グリーンのショートタイツを着用していたこともある。
新日本プロレス時代にも茶色、1975年にはウイルス性関節炎で休場していた後の復帰戦で、師であった力道山と同じ黒のロングタイツを着用して試合を行ったことが1度だけあり、この時のロングタイツはドン荒川のものを借りたという説がある。
2023/6/30(金)



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