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千葉真一 千葉流 サムライへの道

ちば しんいち
千葉真一
千葉 真一(ちば しんいち、JJ Sonny Chiba, 1939年1月22日 - 2021年8月19日)は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優。愛称:千葉ちゃん。本名:前田 禎穂(まえだ さだほ)。 日本を代表する映画スターとして海外ではSonny Chiba(サニー ちば)の名で知られている。特技の器械体操や極真カラテ四段・少林寺拳法弐段・乗馬・スキーを活かした、アクロバティックなスタント・擬斗・殺陣には定評がある。吹き替えに任せず、自ら演じるアクションスターの元祖ともいえる存在で、これまで映画・テレビドラマ・演劇など、計1,500本以上の作品に出演。芸能生活は半世紀以上の60年を越え、ジャパンアクションクラブ (JAC) を設立して俳優・スタントマンを育成し、監督・プロデュースと幅広く活躍していた。



福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。
父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。
テストパイロットの父親は初めて建造された空母へ初着艦を成功させるなど、危険な重責業務で給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかった。
4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となったため、家族で千葉県君津市へ転居した。
終戦後、軍が解体され、父親は漁業組合の役員へ転職したが、家計は厳しかった。
しかし「貧乏だったものの大自然に囲まれていたため、米以外は不自由せずにいろいろな食物を食べることができ、自分の土台となった」と当時を述懐している。
君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師の松本と出会う千葉流 サムライへの道、89頁 松本は千葉を陸上競技・バレーボール・野球(投手で4番打者)など、複数の大会に出場させていた。
この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の一大ブームが発生する千葉流 サムライへの道、90 - 91頁 松本はその時勢に乗り、千葉を「体操部を創るから部員になれ」と勧誘したので、運動部を掛け持ちしながら練習し始める日々となった。
勧められての体操競技だったが、やがてオリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、松本に相談すると「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされた。
進学校のため躊躇していると松本は練習後にも勉強をみてくれる先生を手配し、その甲斐有って合格。
入学後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた千葉流 サムライへの道、95 - 96頁。

その一方でアラン・ラッドの『シェーン』やゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』など、西部劇・アメリカ映画を夢中で観ていた。
1959年、大学を中退して、東映へ入社。
男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた。
1960年1月7日にテレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演した。
当時からスタントを自らこなしていたが千葉流 サムライへの道、184頁。
、その演技・スタント・擬斗は後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与え、映画・テレビドラマとジャンルが替わっても東映は千葉にアクションスターであることを常に求めていく。
息子の主演作品を観た父親はようやく勘当を解いていた。
1969年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演 テレビドラマ『キイハンター』を休んだため、TBSやファンから復帰の要望が高まっていたが千葉流 サムライへの道、33 - 35頁 、ドラマのイメージから脱皮しようと本作に賭ける思いはとても強かった。
監督の中島貞夫と協議しながら小沼を創り上げていき、撮影見学に来ていた小沼本人からもその演技は太鼓判を押された。
同年の京都市民映画祭では本作で演技賞を獲得 喜びと共に「人気者になるだけでなく、様々な作品に出演していかなくてはいけない 『キイハンター』を卒業しよう」と決意する転機になった。
降板をボス役の丹波哲郎に申し入れ千葉流 サムライへの道、20 - 29頁 、丹波と東映は続けたかったが、丹波は「千葉が居ないのでは『キイハンター』は成り立たない だったら一度番組を終わらせよう」と理解を示し、大ヒットしていた同ドラマは1973年に終焉 千葉は「丹波さんの決断にとても感謝している」と述懐している。
1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』では、配役が予科練出身のヤクザ・山中正治に決まり、セリフも全て覚えて撮影に入る直前だった千葉流 サムライへの道、39 - 43頁 しかし狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない 山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサーの日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた。
『日本暗殺秘録』に続いて『広島死闘篇』の脚本を執筆した笠原和夫は、小沼正の一面を山中のキャラクターに取り込んでいたこともあり、東映と笠原は「小沼を好演して受賞した千葉に、山中を演じさせよう」とキャスティングしていた。
このような経緯から千葉も、小沼と山中に共通点を見出して役作りしてきたため、初めは交代に難色を示した。
ほどなくして監督の深作欣二が会議で唯一「千葉に大友を演じさせたほうが、絶対おもしろくなる」と主張していたことを知り、似たような役を再び演じることは俳優として停滞するのではないかと再考し、「役作りし直すから、出番を少し後にずらしてほしい」と交代を了承した。
北大路に役を譲ったのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて二度目となる。
2016/5/16(月)
福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。テストパイロットの父親は初めて建造された空母へ初着艦を成功させるなど、危険な重責業務で給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかった。4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となったため、家族で千葉県君津市へ転居した。終戦後、軍が解体され、父親は漁業組合の役員へ転職したが、家計は厳しかった。しかし「貧乏だったものの大自然に囲まれていたため、米以外は不自由せずにいろいろな食物を食べることができ、自分の土台となった」と当時を述懐している 君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師の松本と出会う千葉流 サムライへの道、89頁  松本は千葉を陸上競技・バレーボール・野球(投手で4番打者)など、複数の大会に出場させていた この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の一大ブームが発生する千葉流 サムライへの道、90 - 91頁  松本はその時勢に乗り、千葉を「体操部を創るから部員になれ」と勧誘したので、運動部を掛け持ちしながら練習し始める日々となった。勧められての体操競技だったが、やがてオリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、松本に相談すると「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされた。進学校のため躊躇していると松本は練習後にも勉強をみてくれる先生を手配し、その甲斐有って合格。入学後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた千葉流 サムライへの道、95 - 96頁。。その一方でアラン・ラッドの『シェーン』やゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』など、西部劇・アメリカ映画を夢中で観ていた。

1959年、大学を中退して、東映へ入社。男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた。1960年1月7日にテレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演した。当時からスタントを自らこなしていたが千葉流 サムライへの道、184頁。、その演技・スタント・擬斗は後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与え、映画・テレビドラマとジャンルが替わっても東映は千葉にアクションスターであることを常に求めていく。息子の主演作品を観た父親はようやく勘当を解いていた。

1969年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演 テレビドラマ『キイハンター』を休んだため、TBSやファンから復帰の要望が高まっていたが千葉流 サムライへの道、33 - 35頁 、ドラマのイメージから脱皮しようと本作に賭ける思いはとても強かった 監督の中島貞夫と協議しながら小沼を創り上げていき、撮影見学に来ていた小沼本人からもその演技は太鼓判を押された 同年の京都市民映画祭では本作で演技賞を獲得 喜びと共に「人気者になるだけでなく、様々な作品に出演していかなくてはいけない 『キイハンター』を卒業しよう」と決意する転機になった 降板をボス役の丹波哲郎に申し入れ千葉流 サムライへの道、20 - 29頁 、丹波と東映は続けたかったが、丹波は「千葉が居ないのでは『キイハンター』は成り立たない だったら一度番組を終わらせよう」と理解を示し、大ヒットしていた同ドラマは1973年に終焉 千葉は「丹波さんの決断にとても感謝している」と述懐している。

1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』では、配役が予科練出身のヤクザ・山中正治に決まり、セリフも全て覚えて撮影に入る直前だった千葉流 サムライへの道、39 - 43頁  しかし狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない 山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサーの日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた 『日本暗殺秘録』に続いて『広島死闘篇』の脚本を執筆した笠原和夫は、小沼正の一面を山中のキャラクターに取り込んでいたこともあり、東映と笠原は「小沼を好演して受賞した千葉に、山中を演じさせよう」とキャスティングしていた このような経緯から千葉も、小沼と山中に共通点を見出して役作りしてきたため、初めは交代に難色を示した ほどなくして監督の深作欣二が会議で唯一「千葉に大友を演じさせたほうが、絶対おもしろくなる」と主張していたことを知り、似たような役を再び演じることは俳優として停滞するのではないかと再考し、「役作りし直すから、出番を少し後にずらしてほしい」と交代を了承した 北大路に役を譲ったのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて二度目となる。
福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。テストパイロットの父親は初めて建造された空母へ初着艦を成功させるなど、危険な重責業務で給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかった。4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となったため、家族で千葉県君津市へ転居した。終戦後、軍が解体され、父親は漁業組合の役員へ転職したが、家計は厳しかった。しかし「貧乏だったものの大自然に囲まれていたため、米以外は不自由せずにいろいろな食物を食べることができ、自分の土台となった」と当時を述懐している 君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師の松本と出会う千葉流 サムライへの道、89頁  松本は千葉を陸上競技・バレーボール・野球(投手で4番打者)など、複数の大会に出場させていた この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の一大ブームが発生する千葉流 サムライへの道、90 - 91頁  松本はその時勢に乗り、千葉を「体操部を創るから部員になれ」と勧誘したので、運動部を掛け持ちしながら練習し始める日々となった。勧められての体操競技だったが、やがてオリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、松本に相談すると「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされた。進学校のため躊躇していると松本は練習後にも勉強をみてくれる先生を手配し、その甲斐有って合格。入学後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた千葉流 サムライへの道、95 - 96頁。。その一方でアラン・ラッドの『シェーン』やゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』など、西部劇・アメリカ映画を夢中で観ていた。

1959年、大学を中退して、東映へ入社。男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた。1960年1月7日にテレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演した。当時からスタントを自らこなしていたが千葉流 サムライへの道、184頁。、その演技・スタント・擬斗は後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与え、映画・テレビドラマとジャンルが替わっても東映は千葉にアクションスターであることを常に求めていく。息子の主演作品を観た父親はようやく勘当を解いていた。

1969年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演 テレビドラマ『キイハンター』を休んだため、TBSやファンから復帰の要望が高まっていたが千葉流 サムライへの道、33 - 35頁 、ドラマのイメージから脱皮しようと本作に賭ける思いはとても強かった 監督の中島貞夫と協議しながら小沼を創り上げていき、撮影見学に来ていた小沼本人からもその演技は太鼓判を押された 同年の京都市民映画祭では本作で演技賞を獲得 喜びと共に「人気者になるだけでなく、様々な作品に出演していかなくてはいけない 『キイハンター』を卒業しよう」と決意する転機になった 降板をボス役の丹波哲郎に申し入れ千葉流 サムライへの道、20 - 29頁 、丹波と東映は続けたかったが、丹波は「千葉が居ないのでは『キイハンター』は成り立たない だったら一度番組を終わらせよう」と理解を示し、大ヒットしていた同ドラマは1973年に終焉 千葉は「丹波さんの決断にとても感謝している」と述懐している。

1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』では、配役が予科練出身のヤクザ・山中正治に決まり、セリフも全て覚えて撮影に入る直前だった千葉流 サムライへの道、39 - 43頁  しかし狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない 山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサーの日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた 『日本暗殺秘録』に続いて『広島死闘篇』の脚本を執筆した笠原和夫は、小沼正の一面を山中のキャラクターに取り込んでいたこともあり、東映と笠原は「小沼を好演して受賞した千葉に、山中を演じさせよう」とキャスティングしていた このような経緯から千葉も、小沼と山中に共通点を見出して役作りしてきたため、初めは交代に難色を示した ほどなくして監督の深作欣二が会議で唯一「千葉に大友を演じさせたほうが、絶対おもしろくなる」と主張していたことを知り、似たような役を再び演じることは俳優として停滞するのではないかと再考し、「役作りし直すから、出番を少し後にずらしてほしい」と交代を了承した 北大路に役を譲ったのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて二度目となる。
福岡県福岡市博多区雑餉隈で二男三女の長男(第二子)として生誕。父親は大刀洗町に在った陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。テストパイロットの父親は初めて建造された空母へ初着艦を成功させるなど、危険な重責業務で給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかった。4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となったため、家族で千葉県君津市へ転居した。終戦後、軍が解体され、父親は漁業組合の役員へ転職したが、家計は厳しかった。しかし「貧乏だったものの大自然に囲まれていたため、米以外は不自由せずにいろいろな食物を食べることができ、自分の土台となった」と当時を述懐している 君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師の松本と出会う千葉流 サムライへの道、89頁  松本は千葉を陸上競技・バレーボール・野球(投手で4番打者)など、複数の大会に出場させていた この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の一大ブームが発生する千葉流 サムライへの道、90 - 91頁  松本はその時勢に乗り、千葉を「体操部を創るから部員になれ」と勧誘したので、運動部を掛け持ちしながら練習し始める日々となった。勧められての体操競技だったが、やがてオリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、松本に相談すると「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされた。進学校のため躊躇していると松本は練習後にも勉強をみてくれる先生を手配し、その甲斐有って合格。入学後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた千葉流 サムライへの道、95 - 96頁。。その一方でアラン・ラッドの『シェーン』やゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』など、西部劇・アメリカ映画を夢中で観ていた。

1959年、大学を中退して、東映へ入社。男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた。1960年1月7日にテレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビューし、続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演した。当時からスタントを自らこなしていたが千葉流 サムライへの道、184頁。、その演技・スタント・擬斗は後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与え、映画・テレビドラマとジャンルが替わっても東映は千葉にアクションスターであることを常に求めていく。息子の主演作品を観た父親はようやく勘当を解いていた。

1969年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では小沼正に扮して主演 テレビドラマ『キイハンター』を休んだため、TBSやファンから復帰の要望が高まっていたが千葉流 サムライへの道、33 - 35頁 、ドラマのイメージから脱皮しようと本作に賭ける思いはとても強かった 監督の中島貞夫と協議しながら小沼を創り上げていき、撮影見学に来ていた小沼本人からもその演技は太鼓判を押された 同年の京都市民映画祭では本作で演技賞を獲得 喜びと共に「人気者になるだけでなく、様々な作品に出演していかなくてはいけない 『キイハンター』を卒業しよう」と決意する転機になった 降板をボス役の丹波哲郎に申し入れ千葉流 サムライへの道、20 - 29頁 、丹波と東映は続けたかったが、丹波は「千葉が居ないのでは『キイハンター』は成り立たない だったら一度番組を終わらせよう」と理解を示し、大ヒットしていた同ドラマは1973年に終焉 千葉は「丹波さんの決断にとても感謝している」と述懐している。

1973年の映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』では、配役が予科練出身のヤクザ・山中正治に決まり、セリフも全て覚えて撮影に入る直前だった千葉流 サムライへの道、39 - 43頁  しかし狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない 山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサーの日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた 『日本暗殺秘録』に続いて『広島死闘篇』の脚本を執筆した笠原和夫は、小沼正の一面を山中のキャラクターに取り込んでいたこともあり、東映と笠原は「小沼を好演して受賞した千葉に、山中を演じさせよう」とキャスティングしていた このような経緯から千葉も、小沼と山中に共通点を見出して役作りしてきたため、初めは交代に難色を示した ほどなくして監督の深作欣二が会議で唯一「千葉に大友を演じさせたほうが、絶対おもしろくなる」と主張していたことを知り、似たような役を再び演じることは俳優として停滞するのではないかと再考し、「役作りし直すから、出番を少し後にずらしてほしい」と交代を了承した 北大路に役を譲ったのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて二度目となる。
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