旧東海道の藤川宿、江戸へと続く。
藤川宿 東棒鼻跡の特徴
旧東海道の魅力を感じながら歩くことができます。
歌川広重の東海道五十三次藤川に描かれた場所です。
東海道藤川宿の東入口、棒鼻の歴史に触れられます。
藤川宿といえは2026年3月下旬、藤川宿探訪の際に寄りました。設置してある駒札には—————————————————————-「棒鼻」とは、宿場 の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。藤川宿 に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ、棒鼻が藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重 が東海道五十三次 の藤川「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(八月一日)の御馬進献の行列がちょうど藤川宿の棒鼻に差しかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭(ぼうじくい)、道の両側に石垣を積んで、土を盛った宿囲石垣を描いている。最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。とにかく、現在、藤川宿と言えば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。藤川宿まちづくり研究会—————————————————————-とあり出入口がフォーカスされるのは他の宿場町では聞いたことがなくユニークでした。
東海道の歩き旅の途中に立ち寄りました。
江戸方向から旧東海道を歩いてきて 藤川宿に入りました。藤川宿 東棒鼻です。藤川宿は、東海道五十三次で江戸から37番目の宿場町です。比較的小さな宿場だったらしいですが、歌川広重の浮世絵にある通り 棒鼻が有名だったようです。ここ「東棒鼻跡」は 広重の浮世絵を参考に、厳密に再現したようです。1989年(平成元年)に東海道ルネッサンスの機運が盛り上がり、その年に復元されました。旧東海道を 日本橋から歩いてきて、この年になって覚えた事が すごく多い。棒鼻や曲尺手(かねんて) も そうです。この先の岡崎は「岡崎二十七曲り」があるそうです。
歌川広重の東海道五十三次藤川にも描かれた、藤川宿東の入口です。個人的には東棒鼻よりも、写真は撮りませんでしたが目の前の閉店した牛乳店の看板に目を引かれました。今は牛乳事業から撤退した名古屋牛乳ですね。♫鯱のマークの牛乳をウチじゅう皆飲んでるの~名古屋牛乳飲んでるの~というサイケデリック調のCM曲が延々と脳内再生されます(笑)。
旧東海道です。
東海道 藤川宿の東の入り口。
東海道藤川宿の東入口(江戸方)棒鼻(ぼうばな)は宿場の出入口のことで、「木戸」「見附」ともいう。
| 名前 |
藤川宿 東棒鼻跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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旧東海道踏破チャレンジ2025ここは藤川宿の東側出入口、(江戸方)棒鼻(ぼうばな)で、宿場の境界(出入口)があった場所。東海道でも、東京、神奈川あたりでは棒鼻という言い方はあまり残っていなかった気がする。多くの宿場では、ここに「土手」や「石垣」を築き、その上に杭を立てて宿場の入り口であることを示した。また、宿場の役人や本陣などの人が大名行列を出迎えたり、旅人を見送ったりする儀礼的な場所でもあった。宿場の防犯や検問のために番所が置かれて交通の管理が行われ所もあった。棒鼻の名前は、ここに立てられた棒(杭)、端(はな)が立っている端っこの場所という意味から「棒鼻」と呼ばれるようになったそう。この棒鼻に置かれた検問所が見附で、宿場の入り口に設置された構造物の名前。片側に石垣を積んだ「片見附」が多く、両側のところもあった。江戸側の入り口を「江戸方見附」、反対側を「京方(上方)見附」と呼んだ。桝形(ますがた)は、城郭の建築技術を応用したもので、二つの門の間に四角いスペース(桝のような形)を作り、敵が直進できないようにした空間。曲尺手(かねんて)は、道を大工道具の「曲尺(かねじゃく)」のように直角に曲げていることからこう呼ばれる構造。軍事的な防衛だけでなく、大名行列同士が鉢合わせしないよう、相手を確認して回避する時間を稼ぐ目的があった。棒鼻から宿場内に入る際、道を「桝形」や「曲尺手」に折り曲げ、その曲がり角に見附を配置するのが一般的なセットになっていた。ここでも道は曲尺手になっていたように見える。桝形もあったのではないかと思える。この先で道は二度直角に折れている。ちなみに、歌川広重の東海道五十三次では「藤川 棒鼻ノ図」を描いている。東棒鼻を公的な行列(幕府から朝廷に馬を献上するための行列と言われている)が通るところを描いている。棒鼻は曲尺手のように見え、両側に石垣が築かれている。入口には宿場の役人が出迎えている。