歴史を感じる湧き水と鯉。
ジェラール水屋敷地下貯水槽の特徴
明治10年代にフランス人が作った煉瓦造の貯水槽です。
透明度が高く綺麗な湧き水が続いています。
元町公園の近くに位置する歴史的文化財です。
宅地の中にあります。遠洋航海で真水は生命線です。造水機(海水淡水化装置)が出来る前は、真水を積んで航海に出ていました。横須賀には海軍水道路や帝国海軍配水池遺構といった史跡があります。横浜開港時代に作られたのがこちらです。貴重な真水なので高く売れたでしょう。歴史的価値から文化財登録されていますが、単独で見ても面白さは小さいので、ここから貝殻坂を登って山手の洋館に行くと、表玄関ではない横浜が見れて良いです。
この辺の井戸水は塩分を含んでいて飲めませんでした。上水道が完備する前、ジェラールは、山手の麓に良質な水源を確保し、パイプを敷設して、居留地や寄港船舶に供給しました。この給水施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになったそうです。
こちらは2024年06月16日の訪問となります。横浜開港時、フランス人のジェラールさんはこの地から湧く良質の天然水を居留民や船舶に飲料水として販売してたそうで、この貯水施設を当時の人々は”水屋敷”と呼んでたそうです。インド洋に行っても腐らないと評判だった水は、現在もこんこんと湧き出ているそうな。
2024年7月13日訪問横浜市、元町公園の近くにある水槽の遺構以前は湧き水の池の中にたくさんの魚たちが泳いでいたけど当日行ったら数匹の鯉がいるのみでビックリしやしたよ!中にはレンガの柱やジェラールのことを紹介した説明板もありやす北側には湧き水の出てるスポットもあり水には触れられるので触ってみたけどとても冷たかったさあ🚰
貯水槽の中には、鯉や金魚がいますが、過剰にパンやお菓子などの餌を与える人びとがいるので、可哀想。湧き水なので、自然に出来る藻を食べるので、自然保護の観点からも余分な餌やりは注意喚起が必須。
フランス人のアルフレッド・ジェラールが作った貯水池のあと。彼は谷戸(横浜に多い浸食谷)の湧水を使って横浜に寄港する船に給水する事業を営んでいた。インド洋まで行っても腐らないと評判の品質だったらしいが、今はさほどきれいな水には見えない。
元町公園のすぐ近くにある歴史的な文化財ですね。貯水槽そのものは当時のものかはわかりませんが今風に綺麗に整備されていて、他ではなかなかお目にかかれない貴重な歴史的遺産だと思います。かたや打越の湧き水はマンション建設のため現在は何だかわからない無残な状況になってしまってます。きちんと整備されると歴史を感じることのできるこんな素敵な場所になるのにね。貯水槽を泳いでいる立派な錦鯉は賛否両論ありますが私は歴史あるこの場所をより親しみやすいものにしてくれていると思います。余談ですが隣の家からこちらをのぞき込んでいるドーベルマンには気を付けてくださいねw。
ジェラール水屋敷地下貯水槽。説明文には『 国登録有形文化財ジェラール水屋敷地下貯水槽幕末に来日したフランス人実業家アルフレッド・ジェラール (Alfred Gérard) は、 山手居留地77番78番の地を得ると、 谷戸に湧き出る豊富な湧水を利用して、 横浜港に出入りする船舶への給水事業を開始しました。 「水屋敷」 の名前はここに由来しています。 またジェラールは蒸気機関を導入した工場を建設し、フランス瓦や煉瓦・土管 タイルなど建設資材の製造販売も手がけていました。この煉瓦造貯水槽は工場の入口部分に位置しており、 元町公園一帯が、当時のジ ニェラール工場の敷地でした。 現存するジェラール工場の遺構としては、この貯水槽のほか、元町公園内にもう一つの煉瓦造地下貯水槽 ( 「上部貯水槽」)の存在が確認されています。平成19年3月 横浜市環境局協力:横島都市開発記念 』と書かれています。
2001年に登録の国指定、有形文化財である。この近辺は開港から大正までの多数の遺跡や史跡が存在しているが、国の指定かつ自由に立入りや見学が可能なのは唯一ここだけだ。その影響なのか資料や解説は充実している。今も湧水があり「生きている」と言えよう。賛否はあると思うが、鯉が泳いでいる景色の眺めは良いものである。
| 名前 |
ジェラール水屋敷地下貯水槽 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
045-671-3284 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP |
https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/motomachi/stroll.php |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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説明板によれば、この貯水槽は工場の入口部分にあり、元町公園一帯がジェラールの工場の敷地だったとのこと。ジェラールの工場は、1890年頃に彼が帰国した後も、後継者により操業されていたが、1923年の関東大震災で倒壊し廃業となったようだ。公園一帯が工場の敷地だったということは、依然として未発掘の遺構はあるのだろう。