美濃国分寺跡の静かな睡蓮池。
美濃国分寺跡の特徴
美濃国分寺跡は奈良時代の歴史を感じる貴重な遺跡です。
睡蓮の池が南西にあり、自然を楽しむことができます。
資料館には国分寺の模型が展示されており学びの場です。
建物はありませんが、資料館に模型があります。最初に史跡を観て、資料館の模型を観ることをお勧めします。
睡蓮の池は南西にあります。午後には花は閉じてしまうので、見に行くなら午前。気温的にもそのほうが安全ですね。駐車場は国分寺のを使うのかな。遠いけど。
奈良時代に全国に建立された国分寺のひとつ。七堂伽藍の揃った大きなお寺の跡。周囲は散歩やジョギングコースにされている方も多い。北側の資料館に駐車場有り。
聖武天皇が各国に命じて建立した寺院の一つ。
美濃国分寺跡。創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる。発掘調査では、主要堂塔は750年代には完成していたと推定される。また美濃国分寺以前となる白鳳期の寺院跡の重複が認められており、その前身寺院(在地豪族の氏寺か)を踏襲して国分寺が建立されたことが判明している。同様の白鳳寺院として、不破郡域では国分寺南方で宮処寺跡・宮代廃寺跡も認められている。なお、後継寺院である金銀山国分寺の寺伝では、天平9年(737年)に聖武天皇の勅を拝した行基が当地に至り、自ら薬師如来像を彫って本尊とするとともに七堂伽藍を建てて寺を開いたという。伝承内容は詳らかでなく、後述のように薬師如来像については後世の平安時代頃の作になるとされる。天平神護2年(766年)には、伊勢国・美濃国などに命じた内容のうちに、官舎修理数を奏聞させる場合には「国分二寺」もこれに準じるようにと見える。神護景雲4年(770年)には、美濃国方県郡の少領の国造雄万が私稲2万束を国分寺に献じたことで昇叙された。また宝亀6年(775年には、伊勢国・尾張国・美濃国で異常風雨があり、国分寺・諸寺塔19が倒壊するなどの被害が出たと見える。仁和3年(887年)には火災によって全焼し、その機能は席田郡定額尼寺に移された[4][1][5][3]。その後の再建について文献上に記述は認められていないが、発掘調査では10世紀前半-中頃には当地での再建が認められる。延長5年(927年)成立の『延喜式』主税上の規定では、美濃国の国分寺料として稲4万束があてられている。寛弘元年(1004年)の官宣旨では、美濃国国分寺の堂塔雑舎の破損状況を調べるために坂本忠国らの派遣が命じられており、当時には堂塔の存在が認められる(再建国分寺への派遣か)。また長元2年(1029年)には、損色使が遣わされた。なお、現在の金銀山国分寺の本尊で11世紀頃の作と見られる薬師如来像について元は再建国分寺の本尊とする説があるほか、寺跡域からは11世紀代の灰釉陶器も多数検出されており、当時の寺勢が示唆される。しかし、その後12世紀末頃までには衰退し、国分寺としての機能を失ったと推測される。
歴史を感じることができる場所です。資料館を先にみてからの方がいいと思います。
名前 |
美濃国分寺跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0584-91-5447 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.5 |
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この場所に睡蓮の池があること、知らなかった。