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名前 |
郡塚古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
遺跡名:郡塚古墳(こおりづかこふん)現在地:三重県松阪市嬉野一志町古代地名:伊勢国壱志郡小川郷?現状:竹林に囲まれた中に古墳が現存している。古墳への歩道が整備されている。墳丘上に地蔵を祀ったお堂がある。史跡や古墳に信仰施設があるのは、結果的に人が手入れしたり、現在まで古墳が残る要因にもなる。わざわざ北西の造り出し部分の竹林が伐採されていることから、地元の人に古墳を整備する意識があるのだろう。車は車道の行き止まりに駐車した。墳形:帆立貝式古墳規模:直径約25m(嬉野町史)。直径35m(三重県史)※これ以外の古墳でも「嬉野町史」と「三重県史」では規模に違いが見られる。最新の測量結果を反映しているのか、筆者の見解の違いかもしれないので、基本的に両論併記している。築造時期:4世紀後半~5世紀初頭(嬉野町史)。5世紀初頭(三重県史)※嬉野町史は10期編年外表施設:葺石がされていた埋葬施設:不明出土遺物:調査遺物ではないが内行花文鏡(ないこうかもんきょう)1面と鉄鏃19点が出土したとされる。備考:墳頂部に葺石が一部残存している。この古墳の正式名は遺跡地図などに「一志西浦古墳」とあるが、地元では「郡塚」と呼ばれている。案内・解説看板にも「郡塚古墳」とあり、現在は地元の名称が採用されている様です。近くの薬師寺(東福寺)で見た小冊子には直径約7.5mの円墳と記述があるが何かの間違いだろう。近くの集落には7世紀後半とされる古代寺院「一志廃寺」が見つかっている。この寺院は壱志君(一志君)の氏寺だと言われています。また釜生田辻垣内瓦窯(かもだつじがいとがよう)から出土した巨大な鴟尾はこの「一志廃寺」に供給される鴟尾だったとされています。集落の高台には壱志氏の氏神だった「龍天明神(中世の阿射加神社の祭神)」の跡地もあります。北の丘陵上には前方後方墳の「筒野1号墳(別名は一志の君塚)」があります。周辺一帯が古代一志郡の中枢部であったことを現在に伝えています。「一志西浦古墳は、一志の集落の北西側にあたる丘陵上に単独で位置している。標高約25mの丘陵頂部に築造された古墳で、北側の沖積地とは約10mの高低差がある。この沖積地を隔てて、筒野古墳群が位置しており、筒野1号墳が「一志君塚」と呼ばれるのに対して、西浦古墳は「郡塚」とも呼ばれる。墳丘は直径約25mの円墳であり、北西側に低く短い方形の造り出しが付く、帆立貝式古墳の可能性も想定できる。内行花文鏡と鉄鏃(定角式)が嬉野町一志字クツハリ824~834より出土するが、この地番は西浦古墳が所在する地内であり、周囲に他の古墳は認められないことより、西浦古墳そのものの出土品である可能性が高い。」【参考文献・嬉野町史】「中村川左岸の嬉野一志町の集落の北西に所在する古墳である。丘陵の標高は25m前後であり北に延びる丘陵の頂部に所在する帆立貝式の古墳である。墳頂部は一部の改変を受けているが、墳丘測量では、径35mを測り、西側に造り出しをもつ事から、帆立貝式の古墳であると考えられる。墳丘には葺石等が施されているが、主体部等の埋蔵施設については全く確認されていない。出土遺物としては、東京国立博物館所蔵遺物中、「一志郡豊地村大字一志コヲメ830」から出土した内行花文鏡1面、鉄鏃19点(定角式13、柳葉4、鑿頭(のみがしら)式1、広鋒(ひろさき)三角式1)が所蔵されていることから郡塚古墳出土資料であると考えられる。墳形等からすれば、おおよそ5世紀初頭の古墳であると考えられる。」【案内・解説看板から引用】※豊地村の「郷土資志」によれば、郡塚古墳は「一志字コヲメ八三七番地」に位置している。・壱志君は「古事記」によると、孝昭天皇(こうしょうてんのう)の皇子で天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)を祖とする皇別氏族とされるが、一般的には和珥(わに)氏の支族とされることが多い。和珥(わに)系氏族には小野妹子、物部日向(物部首)、柿本人麻呂、粟田真人などの人物が知られている。和珥氏は「古事記」では春日臣、「日本書紀」では和珥臣とあるが、どちらも同じ和珥氏である。記紀とは時系列が違うが、和珥氏が後に春日氏を名乗ったので、和珥(春日)氏が正しい。一志郡の南には、壱志君と同族の飯高君が支配する飯高郡があり、伊勢地方で最大の前方後円墳である「宝塚古墳」が存在している。古墳時代の伊勢地方では壱志・飯高の両氏が繁栄していたことが分かる。・壱志氏は「日本三代実録」の貞観4年(862年)に壱志宿禰吉野が大春日朝臣の姓を賜るが、これは形骸化して混乱していた、和珥(春日)氏の本流である「大春日朝臣」を壱志氏が名乗ることで再編する意図があったと思われる。この「壱志宿禰吉野」は本貫地が左京にあり、壱志氏の中で朝廷に出仕して、三河介になるなど官人として出世した数少ない人物である。三河介との関係は分からないが、三河国の隣にある遠江国長上郡には壱志郷がある。飯高氏とは違い中央官人層になれなかった壱志氏ではあるが、一志郡地域の神社には香良洲神社(一志直青木)、高茶屋神社(一志狭山枚男)、家城神社所蔵の神社扉(一志重久)など壱志氏の後裔と見られる人物がおり、特に神祇祭祀での活躍が見られる点は、一志郡内にある名神大社の阿射加神社の存在とも関わってくるだろう。私見では外宮御師の一志家(武田の幸福氏は一志家を仮冒)は度会氏の分家ではなく、伊勢市の一志・久保地域に移住した壱志氏の後裔だったと見ている。天白神社(松阪市曽原町)の由緒には「一志県造小野高尚」が中林の月読神社を創祀とあるが、外宮の月夜見宮は一志・久保地域に近い。長野県出身の郷土史家の一志茂樹氏は、仁科神明宮の勧請によって移住した神主の「一志検校」の家系であるが、長野県の安曇野市周辺は現在でも一志姓が多い。伊勢市中村町の菩提山出土瓦経(1174年)に「僧玄海平下野”一志氏”伴氏同氏同氏」とあるのは壱志氏(一志氏)の後裔の人物と思われる。伊勢以外にも志摩の麻生浦(現在の浦村町)に出没した海賊の「壱志守房」は伊勢神宮の国崎神戸の船を襲っている。この人物は麻生浦の有力者であり、神戸との対立が背景にあったとも言われている。この様に壱志氏(一志氏)の分布を広域に広げることも可能である。また古代の皇族の命名方法から、桓武天皇期の大納言であった「壱志濃王」の養育者もしくは扶養者が一志郡の関係者と推定できる。他に大友皇子の娘の「壱志姫王」にも同じことが言える。皇族の諱は地名由来もあるが、「大来皇女(おおくのひめみこ)」=邑久(おく)郡に面する大伯(おおく)の海の船上で生まれたとあり、それは生誕地などの場合である。それ以外の場合は氏族名に由来する例が多い。例えば元正天皇は日本書紀に「新家皇女(にいのみのひめみこ)」=物部新家氏(一志郡日置郷に新家屯倉と一志・飯高の両郡に式内社の物部神社)である。さらに日本書紀私記・高橋氏文の太政官符・東大寺要録等に「飯高天皇」=飯高氏(飯高諸高は元正天皇の時に出仕)である。これについては研究者の見解に基づいている。壱志濃王についても積極的に養育・扶養関係者に壱志氏を推定しても良いと感じるが、現状ではその可能性すら言及されていない。古代の皇族の名前が地元に由来すると聞くと疑問に感じるとは思うが、皇族の命名方法の詳しい事に関しては「名代」や「壬生部」を参照している。7世紀以降は「部民」ではない養育者の関係から命名されることがあり、大海人皇子(天武天皇)、山部親王(桓武天皇)、神野親王(嵯峨天皇)など複数の例がある。