神岡の神坂、歴史の風情感じる。
神坂の特徴
古い家屋が立ち並ぶ神岡の美しい街並みです。
高原川の淵から続く風情あふれる坂道が魅力です。
神秘的な歴史が感じられる急勾配の坂道です。
古き良き街並みの残る神岡。のんびり散策するのにはちょうど良い広さです。
坂が多い街ですが風情のある素敵な場所です。またゆっくり散策したいです。
高原川の淵から続く坂道に古い家屋が所狭しと立ち並んでいる通りです。懐かしさを覚えます。
| 名前 |
神坂 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
朝浦にある神坂(かんさか)は、その急勾配から地域で親しまれると同時に、神秘的な歴史が宿る坂道だ。ここは神岡の中心部を流れる高原川支流の藤波橋付近から、朝浦八幡宮(あそらはちまんぐう)が鎮座する丘陵まで登っていく約18度の急坂で、石畳の道が昔の姿をそのまま今に伝えている。神坂という名の由来は、文字通り神様が通った坂だという。坂の上に位置する朝浦八幡宮では、毎年春に飛騨三大祭の一つ飛騨神岡祭が開催される。大津神社・白山神社と共に三社の例祭として賑わい、祭りの日には朝浦八幡宮の神輿がこの坂を下り町内を巡幸する。その様子から、この坂が神様が通る道として呼ばれるようになったのだろう。さらにこの八幡宮は、平安時代末期、平治の乱で敗れて飛騨へ逃れた武将・源義平が豊前国の宇佐八幡宮から八幡神を勧請して祀ったのが始まりと伝えられている。当初この地には高良明神(こうらみょうじん)という神が祀られていたが、義平が新たに八幡神を祀ったことで八幡宮が中心となった。室町時代末期には荒廃したものの、延徳年間(15世紀末)に江馬氏の家臣である河尻権之正が再興したという伝承も残されている。しかし、この朝浦八幡宮が鎮座する丘は、戦国時代に江馬氏本家と河尻一族の争いの舞台となった場所でもある。河尻氏がこの地に館を建てようとした際、白髪の老人が現れ、「ここは八幡宮の旧社地だから慎重に考えよ」と警告したため、権之正は自らの居館造営をやめて八幡宮再興に力を注いだという。この逸話からも、土地の神聖さが人々の信仰を通じて強く意識されていたことが分かる。後年、江馬氏と河尻氏の対立が激化し、天文年間(1550年代)に合戦へと発展した。江馬氏は巧みに和睦を装い、酒宴を開いて油断した河尻一族を奇襲し、河尻氏を滅ぼした。この際、丘にあった八幡宮も兵火に巻き込まれて焼失してしまったが、後に江馬時正が再建し、享禄年間(1528年頃)には新たな社殿が建てられた。こうした歴史からも、この場所が地域の権力争いの中心にあったことがうかがえる。江戸時代に入ると飛騨一帯は幕府直轄地(天領)となり、神岡町もその支配を受けた。この時代を通じて朝浦八幡宮は地域の人々に氏神として崇められ、穏やかな日々が続いたという。神岡町が再び活気を帯びたのは明治時代からの鉱山開発だ。神岡鉱山は幕府直営時代を経て明治7年(1874年)に三井組が経営に乗り出し、東洋一と称されるまでの大規模な鉱山となった。町には全国から鉱山労働者や技術者が集まり、繁栄の時代を迎えた。だが、その一方で鉱山排水によるイタイイタイ病という深刻な公害が発生し、社会的な問題にもなった。20世紀後半、鉱山は徐々に縮小されていったが、現在はその地下空間が世界的に有名な素粒子研究施設「カミオカンデ」「スーパーカミオカンデ」として活用され、ノーベル賞受賞の舞台ともなった。鉱山の町から科学の町へと変貌を遂げた神岡の歴史がここに凝縮されている。神坂の周囲には明治初期に建てられた古民家が現存しており、当時の鉱山町の繁栄を今に伝えている。現在は空き家だが、保存活用や観光活用の検討がされているという。この坂を登り切った朝浦八幡宮の境内から望む神岡の街並みは静かで穏やかだ。かつて坂の下に流れていた蟻川(ありかわ)という川は昭和40年代に道路になったが、その名残りを石畳や周辺の石垣が今も語っている。平安末期の武将の逸話、中世の合戦、近世の天領、近代鉱山の栄華と公害問題、そして現代の最先端科学研究まで――この神坂は飛騨神岡の長い歴史と人々の営みを見守ってきた。何気なく見える一本の坂道だが、その急な石畳を歩けば、飛騨の歴史を肌で感じることができるだろう。