戦闘機飛燕を守る掩体壕。
旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕の特徴
丁寧に保存された掩体壕が、戦争の記憶を語り継いでいます。
西武多摩川線の近くに位置し、周囲は住宅地となっています。
空襲から戦闘機を守るために築造された、貴重な歴史遺構です。
航空機の防空壕とは知らなかった。戦時中で物資の乏しい折に苦労して造られた様子がうかがえる。毎年、文化の日が公開日との事。
戦後80年という年に被爆者や伝承者からの体験を聞くことが多くありました。中央線沿線の街並みも戦時中の軍事工場や関連施設があったことを学びました。こちらの施設は国道20号線(甲州街道)も西武多摩川線の交差降る住宅街にあります。戦争末期に米軍の空襲から戦闘機を守るために調布飛行場近辺に作られた歴史があります。しかしながら開発により残っているのは僅かになります。人手も資材も不足している中、短期間で作成された旨の説明がありました。戦争の余韻が感じられる施設です。
太平洋戦争末期の昭和19年(1944)に、調布飛行場周辺で戦闘機を空襲から守るために造られた格納施設(いわば「戦闘機用の防空壕」)です。終戦から長い年月が経過し、戦争の記憶が風化していく中、戦争当時の状況や平和の尊さを次世代へと語り継いでいくための貴重な文化財(史跡)として保存されています。
元の所有者が丁寧に保存をしていてくれた事で今日まで残り、また市の管理のお陰でとても良い状態で残っている。使われないものというのはすぐ劣化して無くなってしまうし、保たせようとすると労力や費用がかかる。それでも残す事に意義を感じ多大な労力をかけ今日の自分達に残してくれている誰かのお陰で、今日の私達は当時の面影を垣間見る事が出来る。
西武多摩川線をオーバークロスするため甲州街道が築堤されているので、すぐ脇にあるのだが車からは見づらい位置にある、残り少ない戦闘機を空襲から守るために作られた格納庫と言ったところ、主に戦闘機飛燕を格納していたと思われる、長年保守されかつ補修もされているので保存状態も良く戦争の体験を語り継ぐ証拠として残していきたい施設。
2024.3.21首都防衛陸軍調布飛行場跡に現存する掩体壕。掩体壕とは敵機の爆撃を受けた際、爆風等から機体損傷を避けるため、緩い傾斜をつけた厚いコンクリートで覆った豪のことです。説明図右下からこれは陸軍戦闘機川崎製(現川崎重工)三式戦飛燕の掩体壕です。現在空間がないのは、当時壕の中だけ地表を抉っていたのかな?
武蔵野台駅から歩いて10分ぐらいです。途中に看板があります。結構大きくてびっくりしました。天井を見れば砂利や鉄筋が見えるのでどれだけ短期間で作られたのかわかります。とても興味深い建造物です。
西武多摩川線と国道20号線の陸橋が交差する普通の住宅地に「戦争遺構」がひっそりたたずんでいます。掩体壕と呼ばれる、旧陸軍戦闘機を隠すために格納していた壕です。人が入る防空壕ではないので、扇様の形をしています。壕の中を覗くと、ビニールテープで飛行機を形どってあって、戦闘機がこうやって入っていたんだなぁと想像することができます。隠された戦闘機は、鹿児島県知覧の飛行場へ飛び立ったり訓練に飛んで行ったりしたそうです。壕を前にし目をつぶって戦線での光景を思うと何かグッと胸に込み上げてきて言葉になりません。展示の脇には「平和の木」が植樹されています。広島被爆二世の木とのことです。壕が風化しないように、そして平和の木が大きく成長するように未来に繫がる希望の施設です。
住宅地の土地がほしいスペースに戦争遺構が保存展示されています。案内板が充実の内容でした。昭和の子供たちが掩体壕の前で遊んでいる写真や掩体壕の作り方なども書かれていました。飛行場挟んて斜向い、三鷹市の掩体壕 大沢1号の入口はパネルで塞がれており、そこに絵で格納していた飛燕が書いてあり降着装置が見切れていたので地面の嵩上げで埋まったのかと思ったら、掘り下げていた事をココで知りました。ずっと、平面にカマボコ型の型枠作ったんだと思っていました。掩体壕の中まで覗けるようになっており、安全対策なのか排水対策なのか砂利敷にはなっていましたが、ビニール紐で飛燕の形を書いたりと工夫があり楽しめます。
| 名前 |
旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
042-335-4393 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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掩体壕とは戦闘機を空襲から隠し守る防空壕のような物です、中に入れませんが周りは綺麗に整備されていました。案内板とベンチがあります。