武蔵国府跡で歴史を体感!
武蔵国衙跡の特徴
武蔵国衙跡は奈良時代から平安時代にかけての歴史の中心地です。
大國魂神社に隣接しており、周囲の歴史を感じることができます。
国衙跡の復元された赤い柱が印象的で見どころの一つです。
大國魂神社とその東に位置し、平安時代から約400年間武蔵國(埼玉と東急)の役所群として機能した国府の跡です。国府の中央から「府中」の地名が残っっているなんて知りませんでした。地味にすごい場所なんですね。府中市や都はもっとアピールすべきでは?
昨日(16日)は世田谷のボロ市に、今日(17日)は小平霊園に墓参りに行ったついでに国分寺市のお鷹の道や真姿の池、武蔵国分寺公園と府中市の武蔵国の国府跡や国衙(こくが)地区に行ってきました。国分寺地区の湧き水などはおよそ11年ぶりに行ってきましたが水の流れが清らかで、武蔵国分寺公園はほぼ国分寺跡地に整備された公園で、一角には鉄道試験場があったこともあり車輪なども見られました。
武蔵国府跡の発掘調査が終わり、整備されて府中市と国の史跡に指定されています。管理施設には、史跡の概要がまとめられています。
国府跡としては大國魂神社全体を含む広い範囲になるかと思われます。こちらに展示されているのは国衙跡です。武蔵野国の古代の中心地であった府中市や国分寺市、沢山の史跡があるのは当然として、しっかり保存・復元・解説をされているのが好印象です。こちらは地域公園レベルの広さではあるものの、国衙建物の礎石の位置に柱を建て、史跡であることを表現しています。大國魂神社のすぐ脇にある為、参詣の前後に訪問するのが良いでしょう。
言われなければわからない謎の柱群。オシャレな建物の中に詳しい説明があります。ただし真夏にも関わらず、エアコン効いてませんでした。同じような説明は府中市ふるさと府中歴史館にありましたので、エアコン効いているそちらでのんびり見てからにしたほうがいいと思います。
奈良平安時代の武蔵国府の中心地にあたる国衙の跡地で、建物跡の一部が復元され、見学施設として開放されている。昭和50年以来、継続的に発掘調査を行っており、この武蔵国府跡を中心に、南北約300m、東西約200mの大規模な区画溝に囲われたこの地域には、整然と並んだ大型の建物群の跡が発見され、瓦などの特徴的な遺物が出土している。
大国魂神社の東側にあります。朱色のコンクリート柱が整然と立ち並び、一画には開放的な展示館があり、此方の由緒を説明しています。以下は府中市のホームページからの抜粋です。武蔵国(むさしのくに)の国府は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「多麻郡に在り」との記載があるものの、所在地は特定されていませんでした。江戸時代以降、五説が提起されていましたが、昭和50年以降の調査により、京所(きょうず)説の旧甲州街道に平行する2条の東西大溝と大國魂神社境内から確認された南北溝に囲まれた南北約300メートル、東西約200メートルの範囲が国衙(こくが)(=国府の中心にある役所区画)と判明しました。国衙(こくが)域内では、掘立柱(ほったてばしら)から礎石(そせき)建ち建物に変遷する大型建物跡や、瓦やセンの多量出土がみられます。センとは、漢字でツチ編に専門の「専」と書き、古代のレンガのことです。武蔵国(むさしのくに)21郡中19郡の郡名瓦やセンが出土しており、武蔵国(むさしのくに)の総力をあげた国衙(こくが)・国庁(こくちょう)(=国衙(こくが)のさらに中心にある中心区画)の造営の姿を現しているものと考えられます。国衙(こくが)の存続期間は、出土土器等から8世紀前半から10世紀後半までとみられ、他国の国府跡と共通性があります。さらに、国衙(こくが)域内において確認された溝により、東西・南北約100メートルの区画が推定され、この中から確認された大型建物跡2棟が国庁(こくちょう)の「正殿」に匹敵する国衙(こくが)中枢建物跡と考えられています。国衙(こくが)西側部分に相当する大國魂神社境内域と、上記国衙(こくが)中枢建物跡の保存箇所が指定範囲ですが、大型建物跡部分は整備され公開されています。
5/11迄閉館してるから、要注意だよね❗
神殿の後ろがパワースポットと聞きました。やはり空気が少し違いますね。お焚きあげは神殿左手にありました。土日だと9時頃空いてました。駐車場も空いてます。
名前 |
武蔵国衙跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
042-335-4393 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
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府中と言う名前のルーツになりますね。大國魂神社参道のすぐ横にあります。