八国山の将軍塚で歴史探訪!
将軍塚の特徴
八国山のハイキングコース内に位置し、自然を満喫できるスポットです。
新田義貞の伝説が残る歴史的な場所で、塚の由来を知ることができます。
武蔵野の景色を楽しみつつ、散策や散歩にぴったりな穏やかな環境です。
八国山は標高89.4mの東京都東村山市と埼玉県所沢市にまたがる狭山丘陵の東端にある山です。頂きから 上野(かみつけ)・ 下野(しもつけ)・ 常陸(ひたち)・ 安房(あわ)・ 相模(さがみ)・ 駿河(するが)・ 信濃(しなの)・ 甲斐(かい) の八国が見渡せることから、その名が付いたとされています。将軍塚は、八国山にある塚です。東側には鎌倉街道上道が南北に通っていたことから、八国山周辺は幾度となく戦場となっていました。鎌倉幕府討幕の軍を挙げた新田義貞は、元弘3年(1333)所沢市小手指原で鎌倉幕府方と対戦、府中市分倍河原で勝利しました。この後鎌倉幕府は滅亡します。この戦いの最中に新田義貞が八国山にある塚に旗を立てたことからこの塚が将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられています。
西武新宿線東村山駅から徒歩約50分くらいで八国山緑地のハイキングコース内(埼玉県所沢市側)にあります。元弘の乱の戦いの一つで、元弘3年(1333年)5月12日に鎌倉幕府方の桜田貞国の軍五万と後醍醐天皇方の新田義貞の率いる反幕府軍六千がこの地で戦い新田義貞公がこの場所に旗を立てた場所と碑には記されています。この久米川の戦いは、高地(八国山)に布陣した新田軍が有利となり幕府軍に勝利しました。この戦いの10日後には鎌倉幕府は滅亡することになります。暑さが続いた影響か草木に包まれやや見えにくい状態となり、他の人もいないため、寂しく石碑のみが佇んでいる感じが、場所は違いますが、「枯れ草や兵どもが夢の跡」の句が頭をよぎっていきました。
ここが八国山の三角点の所です。坂というものはあまり感じられなかった。2024/1/29
埼玉県は所沢市の八国山緑地公園に有ります「将軍塚」です。八国山の麓に有る史跡「久米川古戦場」と関わりの有る場所です。(丁度東京と埼玉の県境ですので、下の久米川古戦場は東京都の東村山市になります)元弘三年(1333年)鎌倉時代末期に、鎌倉幕府倒幕の為に新田義貞が上野国から挙兵しました。初戦の「小手指河原の戦い」に勝利した新田義貞は、この里山の麓の平野で第二戦の「久米川の戦い」を繰り広げました。そして久米川の戦いに勝利した新田義貞は、この八国山のいただきに塚をつくり勝利の証として旗を立てたと伝わります。遺構などは何も無く、ただ将軍塚という石碑が立つだけですが…「鎌倉殿の13人」で御馴染み源頼朝が礎を作り、鎌倉北条氏が引き継いだ約130年という一刻(ひととき)の安寧の世の終焉に思いを馳せてみると…感慨深いかもしれません。因みに車の方は東京白十字病院の西側に緑地公園の無料駐車場が有ります。一番里山寄りの一角です。病院の駐車場と並んでいますので間違え無い様に注意です。里山への登り口は駐車場の真ん前に入口が有ります。また、この緑地には大好きな猛禽類の王者であるオオタカの生息が確認されています。公園内のベンチに腰掛け休憩をしていると、コゲラが木を突くドラミング音も聞こえ、木を突くコゲラの姿も見えました。キツツキ系って面白いですよね。ずっと見ちゃいました(笑)下の久米川古戦場と合わせて是非にブラリと散歩がてらに。
幕府討伐の際、新田義貞がこの場所に陣を敷き、旗を立てたと云われているそうです。手前の"元弘青石塔婆所在碑"とは、戦で討ち死にした飽間斎藤一族の供養碑があった場所で、現在その碑は東村山の徳蔵寺に保管されているそうです。
こんな所があるとはびっくりです。日曜日祭日のみ空いているそうです。絵や陶器等の展示があり、静かでひっそりとして素敵です。
古代の塚なのか、富士塚なのか、新田義貞が一時逗留したから将軍塚なのか、わからないとのこと。
東村山駅から30分ほど歩きます。バスで行くなら、所沢駅から西武園駅行きの西武バス(所18系統)があります。「将軍塚」バス停で下車して10分程で着きます。ここから5分程歩くと、久米川古戦場跡地の記念碑があります。
八国山のピーク、所沢川から入ってすぐの場所にあります、小さな丘になっています。
| 名前 |
将軍塚 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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新田義貞が鎌倉幕府討伐に向かう際に塚に旗を立てて逗留した、という逸話が、江戸時代に編纂された風土記に記載されているそうです。300年以上後の書物なので真偽のほどはともかく、こういう塚を見かけることはありますね。ちなみにこのあたりが八国山の三角点のはずですが、確認できませんでした。東村山駅から徒歩40分でした。