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日本の過疎の発祥の地ともいわれる匹見。それはまさに過疎の町に突如現れた巨大な城であった。正式名称は当時「匹見町豪雪山村開発総合センター」といった。通称「匹見タウンホール」。私などはよく「センター」といっていた。完成したのは昭和44年(1969年)であった。その年完成の式典が盛大に行われたのを覚えている。まだ小学校の低学年であった。記録によれば約3000人が集まったという。宿泊施設、食堂、集会ホール、図書館、役場などがあった。建物の周りには池がありコイが泳いでいた。談話室がありそこには当時としては大きなカラーテレビがあった。夜友達とプロレス中継をよく見に行った。集会ホールでは様々な催し物などが開催された。結婚式も行われていた。あの独特の外観は今でも印象に残っている。とりわけ船のような外観に、両端が船の帆先のようなイメージ。小学生の時それを絵に描いて、町の絵のコンクールで入賞した。匹見町の人口は昭和30年代の約7500人を最高に、その後減少していく。高度経済成長の波は労働力を都市に吸い上げていく。そして追い打ちをかけたのが昭和38年の豪雪であった。そこから一気に人口の減少が進む。過疎の振興のためのタウンホールが完成したのちも人口減少には歯止めがかからなかった。私が匹見にいた昭和50年代初めの当時は3000人台まで減少していた。そして現在は1000人を割ったと聞く。数年前久しぶりに匹見を訪れ、タウンホールを見た。完成から半世紀以上。改修も行われたのであろうが、あの独特の外観はまだ残っていた。