豊田氏と大庭氏の歴史を感じる。
大庭塚の特徴
昭和初年に移動された塚の歴史的価値が感じられます。
豊田氏(大庭氏)との歴史的繋がりを示す貴重なスポットです。
数少ない地域の文化遺産として訪れる価値があります。
当地と豊田氏(大庭氏)との繋がりを示す数少ない痕跡です。と言っても豊田次郎景俊ではなく、その父の大庭景宗の墓であると吾妻鏡に書かれているそうです。豊田景俊は石橋山の合戦に兄の懐島景義(大庭景義)と参陣する下り以降、文献上では全く登場しないといいます。せっかくの豊田を冠する武将ですから、もう少し解明されるといいですね。
史跡になります。
名前 |
大庭塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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昭和の初年に元の場所より西方に20mほど塚が移動されたとある。塚もその時つくりなおしたのだろう、昭和の築造とある。江戸の頃に 塚の由来は解らないとある。が、東鑑に記されているのが決めてで大庭景宗(かげむね)のはかであるという。1953年の書には 大庭三郎の墓と訛傳(かでん)、誤って伝えている、とある。____________________江戸の頃に 塚の由来は解らないとある。が、東鑑に記されているのが決めてであるとある。❶【参考 新編相模風土記稿 1830年】大場塚 江戸時代のこの塚の紹介文由来はつたわってない。【あずまかがみ】によると、大場景能(かげちか)の父の景宗(かげむね)の墳墓であるという。文治4年(1188年)11月に集団をなした盗賊がきて是を盗掘された事柄が同書に記されている。[所在地] 村東字道浄の畑の中に在り[寸法] 高120㎝(4尺)亘2間餘____________________これが決め手らしい。豊田庄に大場景能の父景宗墳墓がある と書かれている。❷【参考 あずまかがみ 1188年11月27日】文治4年(1188年)11月27日。大場景能の父景宗墳墓が相模の国の豊田庄にあります。群れを成した盗賊がきて、塚を堀り開いて、墓に納められていた重宝等を持ち去った。盗賊の行方は分からないので追い捕まえることは難しい。考えてみると事の初めは倒れ死んだ狐を見つけ出したことだろうとおもわれる。不思議な事です。文治四年十一月大廿七日丙辰。景能父景宗墳墓在相摸國豊田庄。而群盜竸來。堀開彼塚。盜取所納之重寳等去畢。雖追奔之。不知其行方。思此事之始。去比狐斃之由。見出時也云々。人以不思儀云々。___________________❸【参考 神奈川県中郡勢誌 1953年】今、この塚を家康の家来、大庭三郎の墓と訛傳(かでん・誤って伝えることの意)している。ちなみに現存の塚は原の位置より約20m西方に移転した。昭和初年の築造である。