柏原宿、本陣の歴史を感じて。
中山道60番目の宿場町として柏原宿が広がり、東西約1.5キロメートルにもおよぶ中山道の中でも大規模な宿場町で、344軒の家があったと伝えられてうち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠22軒があったそうで、現在では常夜灯や街道沿いの宿場町特有の2階建ての軒の低い数軒の家が面影を伝えていますよ。伊吹堂亀屋佐京商店 - 創業寛文元年。伊吹もぐさの老舗、柏原宿歴史館 、成菩提院、徳源院(京極氏菩提寺)などが見所ですよ。
柏原宿の本陣跡。
本陣跡のようです。
名前 |
中山道柏原宿本陣跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
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本陣は参勤交代の大名、公家、幕府役人、外国使節が休憩・宿泊する施設のこと。三軒隣にある脇本陣は控え、もしくは大名家臣が休憩・宿泊した施設。現在は一般家屋が建っている。柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣・脇本陣を務めていた。本陣の間口は現在の一般家の両隣りを合わせた広さで26間(52m)、右側が南部家の私邸で、左側に大名が宿泊する建物があった。屋敷は526坪、建坪は138坪あった。大名や外国使節などの大通行の際には、街道の掃除が行われた。その区域は宿内に限らず、宿外の広い範囲におよび、文政6年(1823)の柏原宿の資料をみると、宿内780間(1420m)のほか街道1560間(2840m)分が掃除区域となっており、柏原宿のほか近隣20村で分担されていた。休泊の数日前になると、宿場から遠見の者を派遣。そして休泊当日は、門前に大名から預かった関札(宿札)を高く掲げ、大名の家紋が入った陣幕を張り、家紋入りの門提灯を立てて宿場の入口で平伏して迎えた。明和元年(1764年)に朝鮮通信使が来た時は、2年前から準備を始めたという。さらに大変だったのが、問屋場業務である。問屋場は陣場の継ぎ立てを行っていた。継ぎ立てとは、本陣・脇本陣宿泊者の荷物を次の宿場まで運ぶ業務だ。運搬には公用人馬が用いられたが、幕府からはほとんど金銭の支給はなく、帳簿付け等の事務作業含めて宿場で管理しなければならず、宿場間の松並木の維持まで宿場が管理維持していた等、宿場維持作業が相当な負担になっていたそうだ。そんな状況だったので、明治時代になって移動手段が鉄道に移行すると、小さな宿場町は急速に衰退していった。本陣の建物は、明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司に売却された。