尾張名古屋藩の歴史を感じる。
尾張名古屋藩徳川家屋敷跡の特徴
紀尾井町の町名由来が記された説明板が魅力的です。
尾張徳川家の藩邸があった歴史的な屋敷跡です。
ソフィア通り沿いに位置する静かな史跡です。
紀尾井亭の前に建てられている尾張名古屋藩徳川家屋敷跡です。
上智大学一帯は、尾張藩徳川家の中屋敷でした。幕末まで世嗣や隠居の住まいなどとして使用されました。
上智大学そばに説明板と石碑のみあります。歴史を感じます。
屋敷跡発見👀歴史を感じる石柱。
説明の掲示板には 紀尾井町の町名の由来などが書かれてありました。
「紀尾井坂の変」でも有名な紀尾井坂は、清水坂の周りにあった武家屋敷のそれぞれ一字ずつから「紀尾井坂」と呼ばれるようになりました。紀州徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、彦根藩井伊家の「井」です。ここには、尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。今では、手前が紀尾井ホール、その先が上智大学の敷地となっています。高台の日当たりの良い通りですが、その横には、今は埋め立られた真田濠があったと、今では昔の風景を想像するのは難しいです。
特に何も無いよね~
徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の藩邸があった場所です。
此の地位一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かっ為に、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。明治5年、此の地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
| 名前 |
尾張名古屋藩徳川家屋敷跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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千代田区紀尾井町。尾張徳川家の中屋敷があった場所です。尾張徳川家は徳川家康の九男・義直が、1610年の名古屋城築城に合わせて尾張藩初代藩主になった事で始まりました。石高は62万石。水戸・紀州と共に御三家と称せられた中でも筆頭の地位にありました。尾張藩は尾張一国と木曽の山林を有し、第7代藩主・宗春は当時の将軍・吉宗の元で進められていた享保の改革の倹約政策に反発して名古屋城下の人たちに娯楽や消費を奨励したことで知られています。無駄遣いを抑えて堅実にすること、消費を増やして経済を回すことのどちらが正しいのかは永遠の課題と言えるのかもしれません。宗春は幕府の方針に逆らった政策を危険視されて蟄居を命じられますが、今でも名古屋では大変人気のある人物となっています。