歴史深き臨幸記念碑の魅力。
御臨幸記念碑の特徴
臨幸記念碑は関東大震災を契機に建てられた大きな記念碑です。
昭和天皇が訪れた歴史的な背景を感じられる貴重なスポットです。
説明板に地元の歴史が詳しく記載されており、学びの場となっています。
臨幸記念碑(rinkōkinenhi)1923年の関東大震災とその後の復興に伴い、1930年5月24日に昭和天皇が千代田区立学校を訪れた記念碑。小学校は地震で破壊されました。帝国訪問とそれに伴う幸運のために、通りは「御幸通り」美雪通りと改名されました。(原文)臨幸記念碑 (rinkō kinenhi) Memorial of an Imperial visit by the Emperor Showa to the Chiyoda Elementary School on 24 May 1930 in the wake of the 1923 Great Kanto Earthquake and the reconstruction efforts following the disaster. The Elementary School had been destroyed in the earthquake. The street was renamed 「御幸通り」 Miyuki-dori for the Imperial visit and the luck that came with it.
なんちゃない。
卒業生だが場所変わったみたいですな校庭内NTTの方にあった気がする。
良き日本人の精神を感じます❗
説明板が建っており、次のように書かれていました。<臨幸記念碑 現代語訳>大正十二年(1923)九月一日に起こった関東大震災に伴う火災により、未だかつてない災いを蒙った帝都東京も、更正の努力7年にして、復興という重大な事業を完成しました。昭和五年(1930)三月二十四日に、おそれ多くも天皇陛下が復興した帝都をご巡幸されました。この日、天皇が常用する車を本校におとどめなさり、3階の御座所にてご休憩遊ばれ、復興功労者に直にお会いなされ、復興小学校代表者一同の拝礼をお受けになられました。本校はまた、親しく方々をご覧になられる光栄を受けました。この間、実に1時間25分に及び、まことに恐れかしこまり感激に堪えず、臣下である私達は、謹んで天皇の命令を心にとどめて、朝から晩まで一心に励み、それによってその本分を尽くして、天皇のご恩の万一にも報い奉ることを決心しました。ここに本校後援会で相談をして、天皇が一時乗り物をとどめた場所としての記念碑を建立します。碑が完成するにあたり、これを彫り刻んで後世に伝えます。<千代田小学校・臨幸記念碑・御幸通り> 千代田尋常小学校(以下、千代田小学校)は明治9年(1876年)8月、当時の馬喰町一丁目地元有志の学校建設の出願により、翌10年3月、当時矢ノ倉町15番地だったこの地に新校舎を建築し移転しました。 大正12年(1923年)9月、関東地方を襲った関東大震災により学校は全焼し、その後東京市の震災復旧事業の一環として、昭和4年に鉄筋コンクリート建の校舎が建設され、翌年には、学校のとなりに校庭と一体的に利用ができるよう、震災復興公園として千代田公園が整備されました。 昭和18年(1930年)3月、昭和天皇の復興帝都巡行にあたって、竣功間もない千代田小学校にご臨幸されました。これを光栄として同校の後援会を中心に記念碑建設の声があがり、地元有志の寄付、日本橋区役所の補助金に予知、昭和8年に臨幸記念碑が建立されてました。建立された当初は校庭の一角にありましたが、現在は千代田公園内に移設され、当時の記憶を今に伝えています。 千代田小学校はその後、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲によって崩壊し、昭和20年3月廃校となりましたが、残った鉄筋校舎の骨格を用いて補修され、教育制度改革による中学校となり、中央区立久松中学校、第四中学校を建て現在の中央区日本橋中学校となりました。 また、東日本橋二丁目1番先から東日本橋一丁目10番(本案内板設置個所)先の区道は、昭和天皇がご臨幸の際に通られたことから、昭和63年度に道路愛称名として「御幸通り」と命名されました。
以前は日本橋中学校の校庭内にあった記憶があるが、いつの間に移動したのだろうか。大正12年(1923年)9月1日に起こった、関東大震災で甚大な被害を受けた帝都東京。その後復興が進んだ昭和5年(1930年)に、昭和天皇がこの地を訪れ、復興の功労者と直に面会し、感激した事を記念して昭和8年に完成させた碑。
名前 |
御臨幸記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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目立ちませんが、大きな記念碑です。