スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
義経宮 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
|
評価 |
5.0 |
仏像本献と義経平安時代末期、 奥州藤原3代秀衡は、白山の麓,石徹白の地に虚空蔵菩薩坐像法(国重要文化財石徹白大師堂)を寄進した。元暦元年 (1181)2月に家来上杉宗庸らに仏像本献の旅を命じた。奥州で尊像を造し、東山道・東海道を経て石徹白の地に至り、社殿を修め安置し、翌年7月に帰郷した。再び石徹白に派遣された宗庸ら小武士団は、 藤原氏の成立によってそのまま住み着いたと、古記録「上杉系図」に記されている。時はまさに平氏滅亡から、頼朝と義経の対立にいたる時期であった。秀衡の仏像寄進の真のねらいは、 山伏たちのネットワークを通じて、頼朝支配地域の動向を探り、義経の奥州への逃避行を助けることにあったと考えられている。義経の逃避行ルートは通説の北陸路と違い、鎌倉時代の正史「吾妻鏡」には「伊勢·美濃を通った」と記されている。上杉宗庸たち小武士団は、義経一行を護衛し、美濃から北陸へ抜ける白山越の難渋なコースを案内していったことをうかがい知ることができる。