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名前 |
五味原城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
五味原城址(ごみはらじょうし)は、飛騨の山奥に静かに眠る小さな山城の跡だ。地元では親しみを込めて「しろやま(城山)」と呼ばれていて、小高い山頂にその遺構がひっそりと残っている。険しい山道を登っていくと、当時の城の中心であった主郭や、山城特有の堀切、斜面を平坦に削った腰曲輪などを見ることができる。ただ、規模自体は大きくなく、堀切や曲輪もごく最小限で、急ごしらえの臨時の城だったことがよく分かる。五味原城は、その位置から見ても、戦略的に重要だったことが伝わってくる。飛騨北部の高原郷という地域を守るための拠点で、荒城川(あらきがわ)上流の峠道を監視する目的があった。築城したのは、当時この地域一帯を支配していた江馬氏とされている。正確な築城年は分かっていないが、戦国時代の終わり頃、1582年(天正10年)あたりだと推測されている。五味原城の築城主とされる江馬氏は、中世以来飛騨国の北部で力を伸ばした武将の一族で、もともと荒城郷(現・高山市国府町周辺)を中心に支配を広げていた。ところが戦国末期になると、飛騨南部を支配する姉小路氏(あねがこうじし、別名三木氏)との対立が激しくなってしまう。両者は飛騨を二分する勢力となり、地域の覇権を巡って何度も戦いを繰り返した。その対立がピークに達したのが、1582年10月に起きた「八日町の戦い」だった。この戦いでは、江馬氏16代目当主の江馬輝盛(えまてるもり)が300騎の兵を率いて姉小路(三木)氏に挑んだが、相手方の1000騎を超える大軍に敗れ、輝盛自身も戦死してしまった。この敗戦により江馬氏の勢力は完全に崩れ、その後間もなく姉小路氏が江馬氏の本拠地である高原諏訪城をはじめ、周辺の城を次々と落としていった。おそらく五味原城も、この時期に放棄されたものだろう。江馬氏が滅亡した後、この城が再び利用されることはなく、そのまま歴史の中に埋もれていった。五味原城が築かれた背景には、江馬輝盛の巧みな戦略が隠されている。当時、飛騨南部から高原郷へ攻め入るルートは主に二つあり、その一つが五味原城が守る「トヤ峠」という峠道だった。もう一つは、江馬輝盛自身が攻め込んだ十三墓峠(じゅうさんぼとうげ)で、この二つの峠を徹底的に守るために築かれた城の一つが五味原城だった。最終的には敗北したが、軍略としては理にかなった配置であり、その巧妙な布陣からも江馬輝盛の武将としての力量がうかがえる。さらに、城跡周辺には江馬氏ゆかりの興味深い史跡や逸話が残されている。特に有名なのが、八日町の合戦後に主君・輝盛の後を追い自害した13人の家臣たちの伝承だ。この家臣たちは地元の人々によって葬られ、その場所は後に「十三墓峠」と名付けられ、今もその供養碑が静かに立っている。また近隣の折敷地住吉神社には、輝盛自身が永禄3年(1560年)に奉納した鰐口(わにぐち、寺社の鐘の一種)が現存し、「江馬常陸介輝盛 奉掛住吉神社社頭」という刻印も残っている。これらは江馬氏の地域支配と人々とのつながりを今に伝える貴重な史料だ。現在の五味原城址は観光地として特に整備されているわけではないが、むしろ中世山城本来の雰囲気が色濃く残り、歴史好きには魅力的な場所だと思う。江馬氏の悲劇的な最期や、地元の伝承、そしてその城が果たした歴史的な役割など、小さな城に詰まった物語は非常に豊かだ。訪れる人は多くないが、その分、静かな環境の中で飛騨の戦国ロマンをじっくり味わえるだろう。派手さはないが、その素朴さこそがこの城の最大の魅力だと言えるかもしれない。