歴史を語る水汲坂の魅力。
水汲坂の特徴
旧北国街道沿いの歴史的な場所で、魅力を感じます。
坂を下った先に井戸の跡があり、水場の歴史が感じられます。
橘の宿趾の地図に示された池の存在が興味深いです。
旧北国街道沿いにあります。この坂の下におそらく沢があり昔は水を汲んでいたのではないかと思います。
坂を下った先に井戸の跡のようなものがあります井戸は後年のものと思いますがすぐ側は湿地状の土地で確かに水場であったと伺えます橘の宿趾に設置されている地図には坂の下に池があるように書かれているのでそこから宿場に水を運んだのでしょう。
| 名前 |
水汲坂 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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加賀市橘町にある水汲坂(みずくみざか)は、旧北国街道の歴史を静かに語る、昔ながらの坂道だ。派手さはないが、何とも言えない味わい深い歴史がここには詰まっている。この水汲坂という名前の由来はとても分かりやすく、坂を下ったところに昔、旅人たちが水を汲んだ池があったことにちなむ。坂の途中には、石組みの古い「水汲み池」が今もひっそり残っている。池はそれほど大きくなく、1~2メートル四方、深さは1メートルほどしかないが、かつてはここが橘宿(たちばなしゅく)を行き交う人々の大事な水場だったわけだ。橘宿といえば江戸時代、大聖寺藩(だいしょうじはん)の管轄で、加賀藩(かがはん)の参勤交代ルートにもなっていた場所だ。当時の橘宿は二つの地区に分かれていて、上橘(かみたちばな)には茶屋街、下橘(しもたちばな)には宿駅が置かれていた。下橘には17疋の馬が常に待機していて、人や物を運ぶ駅馬として活躍したという記録も残っている。それほど橘宿は、この北陸道の重要な中継地だったわけだ。中世から橘の宿は存在していたようで、室町時代の文献にもその名が登場している。旅人の記録に加賀国の「橘」という地名が見られ、少なくとも戦国期には宿場として機能していたことがわかる。江戸時代に入ると、さらに参勤交代が盛んになるにつれ、橘宿の重要性は増していった。水汲坂の近くに残る伝承も面白い。江戸期にはこの宿場の茶屋を営んでいた家々が宿駅役人も兼ねており、中でも銭亀(ぜにがめ)家などは、蓮如(れんにょ)が手掛けたという美しい庭園を所有していたらしい。蓮如上人といえば浄土真宗を全国に広めたあの人物だが、こんな場所にもその足跡が残っているのが興味深い。この庭園は近江八景(おうみはっけい)になぞらえて作庭され、「銭亀屋敷跡」として今も石碑が残る。また、この橘宿には加賀を代表する女流俳人・千代女(ちよじょ)も立ち寄ったことがあるそうだ。千代女がこの地で詠んだ句は「四季折々殊更春の植木茶屋」。その句碑も現地にしっかりと残っている。宿場町という性質上、多くの旅人が行き交った土地だからこそ、多様な文化が交わったのだろう。坂の近隣には歴史好きにはたまらない史跡も多い。まず、橘宿跡の碑文があり、坂道から少し足を延ばすと、多知波那神社(たちばなじんじゃ)という古い神社がある。この神社はかつて「橘上社」と「奥谷下社」という二つの社だったが、明治時代に合併され今に至っている。近くには旧藩境の名残である橘番所(たちばなばんしょ)の跡もあって、ここは江戸末期、水戸の天狗党(てんぐとう)が越前方面から加賀へ侵入するのを阻止するために警備が増強された歴史が残っている。さらに福井県との境目には、「加賀越前国境一里塚跡」や南無阿弥陀仏と刻まれた「国境名号塔」といった史跡も点在している。歴史的な街道は、鉄道や新道が開通するにつれて徐々にその役目を終え、橘宿の茶屋街もいつしか姿を消した。かつて賑わった旅籠の跡地は、今では静かな杉林に戻ってしまったが、こうして坂や碑文だけは当時の様子をかすかに伝えてくれている。派手な観光地ではないし、特に目立つ大きな建物があるわけでもない。だけど、こういった静かな史跡にゆっくりと目を向けてみるのも悪くない。昔の旅人たちが坂道を往復して、喉を潤しながらここで旅を続けた風景が、ふっと目の前に浮かんでくる気がする。水汲坂という小さな坂道を歩くだけで、かつての北陸道の旅の風景を体感できるのだから、歴史散策好きには見逃せないスポットだろう。ちなみに、坂の周囲には案内板や石碑が随所に立っているので、事前知識がなくても安心して歴史探訪を楽しめるのも良いところだ。加賀市を訪れたなら、ちょっと寄り道して水汲坂とその周辺の橘宿跡を歩いてみてほしい。きっと何か懐かしい、古き良き日本の街道風景に出会えるはずだ。