戦国の歴史、江馬氏の足跡。
中地山城跡の特徴
上杉謙信に呼応した城跡で、歴史を感じられます。
曲輪に残る円錐型の山が特徴的な史跡です。
とやま城郭カードに選ばれた名所として知られています。
とやま城郭カード50城の最後の1城に登城しました。中地山公民館前の空き地?に駐車させてもらい少し歩くと次の看板があり、宅地の横から山に入ります。入り口手前には中地山城鳥瞰図設置されています。6分くらいで城跡実測図が設置されたところに着きます。ここはC郭の入り口にあたりますが、その手前にある総曲輪(内堀)が予想以上にしっかりと残されており印象的でした。ここから「殿様の抜穴」といわれる大岩の横を通り5分ほどで城山と呼ばれるA郭につきます。そこにある尖がった高みに上るとA郭が見渡せます。A郭の奥に行くと城天(B郭)ですが、見晴らしはありません。これでめでたく50城完登となり、帰りに砺波市埋蔵文化センター「しるし」さんで、残りのカードと認定証をいただきました。同行してもらった友人たちに感謝です。新たな城郭カード(44+6枚)が登場したので引き続き楽しみたいですね・
天守があった曲輪に円錐型の山。何に使ったのだろうか?狼煙を挙げるため?
上杉謙信に呼応した飛騨神岡 江馬氏によって築かれた様です。
とやま城郭カードに選ばれてます。中地山バス停に車は停めれます。そこから案内板にしたがって山を登ると城跡です。人はほとんど来ないようですが…(^_^;)
飛騨の江馬氏が越中進出の拠点として築城した。城跡は周囲を深く長い堀で囲まれ、各方面に櫓台を置き、主郭下には内枡形虎口を設けて守りを固めている。中地山地区内に案内板があり、大手までの歩道もあるが、近年まで畑として使われていたようで藪化もひどい。
| 名前 |
中地山城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
http://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/center/topics/nakati/nakati.htm |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
|
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中地山城跡は、越中に進出した飛騨国人・江馬輝盛が築いたと伝わる戦国山城で、常願寺川南岸の台地に位置し、殿様馬乗石の伝承が残る。中地山城(なかちやまじょう)は、富山県富山市中地山の山上に位置する戦国時代の山城跡である。戦国末期、飛騨から越中へ勢力を伸ばした国人領主・江馬輝盛(えまてるもり)が築いたと伝えられており、地元には城主が馬に乗る際に使用したとされる「殿様馬乗石」の伝承が残る。台地の西麓にはかつて中地山集落が形成され、城と生活圏が密接に結びついていた。築城は永禄年間(1558~1570年)と考えられており、上杉謙信の越中侵攻に呼応するかたちで、江馬氏が対岸の寺島氏を牽制するために築いたとする説がある。城代には江馬氏の家臣である河上富信が任じられていたと伝わり、常願寺川を挟んで池田城に拠る寺島職定との対立構図のなかで、この地が戦略拠点として重視されたとみられる。記録によれば、永禄12年(1569年)には江馬勢が芦峅寺地域に制札を出し、さらに元亀3年(1572年)には上杉謙信による富山城攻めにも輝盛が加勢したとされる。こうした背景から、中地山城は単なる境目の砦ではなく、飛騨と越中を結ぶ政治軍事の要所として機能していた。しかし、謙信の死後、越中を織田勢が制圧すると情勢は一変する。天正6年(1578年)、中地山城は織田方の三木氏や斎藤氏らの攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となったと伝えられる。以後、城としての利用は絶え、遺構のみが山中に残された。現在の中地山城跡は、北に常願寺川、西に小口川、東に和田川を望む標高約380mの台地上に広がっている。城域は東西約300m、南北約300mの規模で、複数の曲輪や堀切、土塁、虎口、櫓台、空堀などが良好に残存している。郭間を結ぶ通路や土橋の痕跡もあり、戦国後期の山城構造を比較的明瞭に見ることができる。城跡の一部は畑地として利用されてきたが、1982年(昭和57年)に富山市史跡「中地山城跡及び殿様馬乗石」として文化財指定を受け、一定の保全がなされている。遺構の中でも特筆されるのが、伝承で知られる「殿様馬乗石」である。これは、かつて城主が馬に乗る際に踏み台として使用したと伝わる自然石で、「城主の背が低かったために使われた」という逸話が残る。現在ではこの石は城跡から移され、ふもとの中地山神社境内に安置されている。この伝承がいつ頃から語られるようになったのかは明確ではないが、地元で長らく親しまれてきた故事として、文化財指定にも含まれている。中地山城跡を取り巻く地域には、同時代の山城が点在している。近隣の猿倉城、栂ノ尾城、城生城などは、いずれも飛騨勢や上杉勢の防衛線を構成していたとみられ、中地山城との連携が推測される。また、常願寺川を挟んだ富山市街地側には、謙信が攻略した富山城跡があり、現在は富山市郷土博物館として整備されている。さらに、西方の砺波市芦嶽には、反上杉勢力の寺島氏が拠点とした池田城跡が残る。こうした城館群との位置関係から見ても、中地山城が戦国越中の境目において重要な役割を担っていたことが理解できる。なお、城跡の詳細な発掘調査や、江馬氏の具体的な活動拠点としての実証は限られている。江馬輝盛の拠点比定や、河上富信の城代就任などは、近世以降の記録や伝承に依拠する面が大きく、今後の文献調査・考古調査による検証が望まれる分野である。このように中地山城跡は、戦国時代の越中と飛騨の境界における一時代の緊張を物語る遺構であり、遺構保存の状態や地元伝承の存在からも文化財的価値が高い。現地には実測図付きの案内板が設置されており、主郭までは整備された登城道でアクセスが可能である。急峻な地形と静かな山林の中にあっても、曲輪の形状や堀の切れ方などから、かつてここが争いの最前線であったことが実感できる。