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名前 |
杉本稲荷神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
4.0 |
杉本稲荷神社(すぎもといなりじんじゃ)御祭神 倉稲魂命由緒村に残る文禄三年(1594)の検地帳には「下野国落合庄酒谷郷」の地名があり、この酒谷郷が酒野谷村となりました。酒野谷村は江戸時代に上下に分村し、上酒野谷村は旗本領に、下酒野谷村は天領となりました。このとき上酒野谷村は羽黒神社を、下酒野谷村は星宮大明神を鎮守としました。また、その中間に位置する杉本稲荷は酒野谷稲荷大明神と呼ばれ、上下両酒野谷村の住民を氏子とする酒野谷村惣鎮守となっています。正一位稲荷大明神は鹿沼市酒野谷の共有社地に鎮座しています。口伝に依れば往古、酒野谷村帰農土豪層の産土神として勸請祭祀されていました。天正期(1573~1592)に十七家の総意を以て酒野谷村鎭守に奉斎、祭座が制定されました。神社には附属免田が一反二畝八歩あり別当は能泉寺でした。祭典は二月初午とし、十七家座人を一当番組から六当番組に分け交互に祭礼を司祭し、これをムットウと呼びました。祭礼は当番座人が別当能泉寺を祀掌として行う神前の儀式と、当番頭家による惣振舞が執行されました。この座位には厳格な格式が決められてあり、この慣行は江戸時代を通し明治維新後も継承されてきました。明治五年(1872)地租改正で免田全部が没収され旧宇都宮藩士へ拂下げられましたが、六当座人二十五名の拠出金で明治七年(1874)に免田全てを買戻し、座祭慣行とともに明治、大正、昭和と継承されました。六当制による座祭慣行は太平洋戦争終戦後も遵奉され、現在に及んでいます。稲荷社由緒の消滅を憂え六当全員の発願によりここに概要を瑑彫して後世に伝うものです。(「杉本稲荷神社由緒之碑」参照)鹿沼在の仏師高松吉充が、文政十一年(1828)に杉本稲荷神社の御神体像を製作しています。江戸期特有の作品です。