夫婦杉と歴史を感じる参道。
配志和神社の特徴
高皇産霊尊や瓊瓊杵命を祀る由緒ある神社です。
夫婦杉や姥杉といった天然記念物があります。
日本武尊の伝承を今に伝える神社です。
参道沿いの杉並木が歴史を感じます。春なので新緑がきれいでした。庭園があるのですが正面がどこだか解らない感じででした。
配志和(はいしわ)と読む神社。奥深い森林を切り拓くようにある階段を登り切ると参拝出来ます。奥には硯が池があったり神明社があったりと興味をそそられます。かなりの段数の階段なので翌日筋肉痛のご利益がありました。
配志和神社(はいしわじんじゃ)は、蘭梅山の麓に鎮座する神社。『延喜式神名帳』にある「配志和神社(陸奥国・磐井郡)」に比定される式内社(小社)で、近代社格では県社となります。蘭梅山は菅原道真の子である敦茂が、父の育てた蘭梅を当地に植えたとされる山です。創立は第12代景行天皇の時代、皇子である日本武尊が勅を奉じて軍を率い、遠く道の奥に入り、蝦夷の地に至った。進んで営をこの地、 中津郷の山要峰に移し、その嶺頂に登り、凶賊退散を祈願し、自ら矛を収め、三神を鎮斎した。続いて、東奥鎮護の神として祠を建て、火石輪と称したという。火石輪は、烽火を囲んだストーンサークルのようなものとの指摘もある。当初、磐座山に鎮座していたが、中世になり、現在地に遷座したという。磐座山を本山・奥の院と呼び、現在地を新山という。御祭神は、日本武尊が鎮斎した三神、高皇産霊神・瓊瓊杵尊・木花開耶姫命。往時は、始輪大明神・穂志波社・梅森明神・蘭梅明神 (梅の宮)・丑蔵社などとも呼ばれた。江戸時代前期の寛永年間(1624年-1645年)に火災によって縁起文書を焼失した。例祭は5月1日と11月3日。神事の他、裏千家流野点、詩吟・俳句・謡曲、弥栄富沢神楽などがある。1月にはどんと祭がある。拝殿と本殿を幣殿でつなぐ複合社殿は江戸時代中期の正徳元年(1711年)の築造とされる。構造手法優れ、市内の神社建築の中で随一とされる。拝殿二手先組・化粧屋根裏構架、本殿欄間彫刻などが特徴。本殿は、実に奈良時代初期の養老元年(717年)改築との記録もあるが、実際には拝殿と同時期の江戸中期と考えられている。市の有形文化財に指定されている。本殿前の2本の大きなスギは、市内で最古、最大級で、「夫婦杉」として御神木になっている。いずれも樹高42メートル、樹齢1000年以上。市指定天然記念物。境内社に、浅間神社・日吉神社・愛宕神社・天神社・八幡神社・産神社・神明宮・白鳥神社・八雲神社・三宝大荒神社などがある。白鳥神社の御神木は千年杉とも呼ばれる姥杉で、本殿前の「夫婦杉」同様に市内最古、最大といわれている。樹高36.9メートル、樹齢1000年以上。市指定天然記念物。参道の中腹にある庭園は、日本百庭園に数えられる庭園で、上段に岡池、下段に主庭を配する二段式庭園で、晋朴が作庭したとされている。
子供の頃よく遊びに行きました。階段を数えながら境内へ。いまはハイキングコースにもなっていて、気軽に森林浴できます。
雨上がり、緑が濃く神聖な空気がより深まっていた。長い参道は多くの杉に囲まれ、美しく本堂へと続く。歩くごとに、自分自身がその場の空気へ溶け込んでいくようだった。参道を登り切るとにわかに視界が広がり、立派な本堂と合祀された神社が鎮座している。鳥の声や蛙の声を聞きながら、心静かなひとときを過ごした。お近くに来た際には是非寄ってみることをオススメします。ただ、Google Mapの案内だとつけなかったので注意です!(笑)
446段の石段がありますので心の準備を。Googleマップでは辿り着けません。〝配志和神社 第一駐車場〟で検索を。
私は生まれて15歳になるまで配志和神社の近くに住んでいました🏠幼少期 毎日のように通い 遊び育った思い出深き神社⛩️👦今でもジブリの世界を思わせるような雰囲気がとてもたまりません😌そして本殿前 2本の夫婦杉はいつ見ても素晴らしく いっぱい元気をくれます✨🌳🌳👀小学生の頃 友達は産湯ヶ池のあたりで赤い目をした白蛇様と遭遇したとよく話していました🐍昨日 配志和神社に行けた事に感謝✨☀⛩️また実家へ行く際には 必ず立ち寄りたい⛩️🙏🏻✨
夫婦杉という巨樹があります向かって右側目通り幹囲 7.1m樹高 36m左側目通り幹囲 4.8m樹高 25m聴こえるのは雨音と蝉の声のみ。
白鳥神社末社のスズメバチに、歓迎されました。
名前 |
配志和神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0191-23-2904 |
住所 |
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評価 |
4.3 |
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祭神⭐高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)⭐瓊瓊杵命(ニニギノミコト)⭐木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメノミコト)一関市の北部、山の頂上に鎮座する神社です。一般道路から西へ向かい神社のある頂上を目指すのですが、途中からは石段のみの参道となり、その両脇には天高く聳える木々の中に無数の祠や石碑が立ち並び、神域に入っている事を感じさせてくれます。日本武命が蝦夷征討の際、祭神3柱に戦勝祈願した事が始まりとされています。社殿は、息を呑む程荘厳・豪壮な造りで、観ているだけで圧倒されてしまいます。