旧日吉小学校跡の築山で。
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| 名前 |
旧日吉小学校跡 築山 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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🏫現在の築山旧日吉小学校跡の築山です。ベンチが十程あります。旧日吉小学校は、現在は公民館として利用されているようで、門も時間がくれば閉まるようです。程よい木陰で風も吹いて良い憩いの場ですが、閉校以来メンテナンスはされていない様子で落ち葉が堆積しています。🏫築山の歴史近くにあった日吉尋常小学校が手狭になった等の理由から、明治42年(1909年)、この地に日吉尋常高等学校の校舎が新設されました。そして、大正4年(1915年)、大正天皇の御大典記念として築山が造られました。築山は全校生徒がお手伝いして造られたそうです。🏫御大典碑築山の端に、少し地中に埋もれた巻物のような形をした石碑が二つありますが、大正天皇と昭和天皇の即位を祝った御大典碑です。御大典とは、天皇の即位に伴う、即位の礼や大嘗祭とその一連の儀式です。🏫3本の柱と丸いオブジェ築山中央のオブジェは、平成2年11月(1990)に創立百周年事業の一環として造られました。丸いオブジェには、「日吉の子どもは、日の光」と刻まれています。日吉小学校の校歌の一節ですね。三本の石柱は日の光を、日の光に照らされて輝く丸い石は、日吉の子を象徴しています。ここにはタイムカプセルも埋められたはずですが、どうなったのでしょうか。🏫丸くて平たいオブジェマンホールのような形をした、灰色のコンクリの造形物ですが、文字が完全に消えていて読めなくなっています。こちらは、昭和39年に全国学校環境緑化コンクールに入選した時の記念楯です。🏫二宮金次郎像昭和13年度の卒業生によって、昭和14年10月20日に寄贈されたようです。当初は、違う場所にあったようですが、いつの頃からか築山に移設されたようです。🏫セメントで塗りつぶされた石碑の謎を追うこの築山には、文字の部分がセメントで塗りつぶされた謎の石碑が残されています。気になって調べてみました。通常、石碑がセメントで塗りつぶされると言う事が過去にあったのは、敗戦時にGHQにより神道指令がでた時期です。この頃、学校にお宮を建ててはならぬというお達しがあったり、社格制度が廃止されたりで全国的に神社の社号標石の社格の部分がセメントなどで塗り潰された事があります。近くでは、旧美須賀中学校が建築された当初、校庭のすみにあった社が、占領軍から学校にお宮を建ててはならぬというお達しがあって移転した話が伝わっています。なら、この場所にお宮があったのか古地図や文献等で調べてみますと、確かに1872年頃までは、蔵敷八幡宮と思われるお宮がこの地にあったと思われるのですが、学校がこの地に出来たのが、明治42年(1909年)で、築山が出来たのが、大正4年(1915年)です。蔵敷八幡宮が吹上神社に1872頃に遷座して40年程建ってから、学校が建った事になります。詳細までは不明ですが、学校を建設する際の記録には、このあたりは田畑であった旨が記載されているので、学校が建設された明治42年(1909年)には、蔵敷八幡宮の痕跡は、ほぼ残ってなかったのではないかと。ほぼと言ったのは、蔵敷八幡宮の遺構として、泉川に石の反橋が残っていた事が今治市誌(昭和18年刊行)に記されていたからです。と言う事でこのセメントで塗りつぶされた石碑は、最初は蔵敷八幡宮がらみの石碑と疑っていたのですが、そうでもなさそうな気がしてきたので、じゃあなんだ?という話で日吉小学校の資料をあたっていたのですが、日吉小学校の沿革に、奉安殿築山外頴 昭和4年(1929年)2月22日完成とあります。奉安殿とは、明治以降、学校に下賜された天皇・皇后両陛下の御真影(写真)や教育勅語謄本を納めていた建物のことです。小さなお社のような建物であった事が写真に残っていました。この奉安殿は、築山に建造され東を向いていました。現在築山近くにある門は、かつては正門で、門に立つと丁度斜め向かいに奉安殿が見えたようで、生徒達は登下校時に最敬礼を行なっていたそうです。竣工が昭和3年11月11日で昭和4年2月に完成という事なので、同じ築山にある昭和天皇の御大典記念碑が昭和3年11月で日付が近い事から奉安殿も昭和天皇の即位を祝って一連の計画の中で作られたものだと思います。今治市誌には、昭和3年10月13日に市役所宛に昭和天皇の御真影(写真)が下賜された事が記載されています。時期的にこの頃に今治の学校にも下賜されたと思われるので、御真影(写真)を保管する場所として昭和4年2月に奉安殿が作られたのでしょう。そして、ようやくここからが、なぜ石碑がセメントで埋められてしまったのかという話しなんですが、日本が敗戦し、1945年(昭和20年)12月15日にGHQの神道指令により奉安殿の廃止が決定しました。翌年文部省の通達により全国の奉安殿は学校から全面撤去される事となります。なので、奉安殿はこの時に撤去されたであろう事はわかりますが、この石碑は、奉安殿に関する文字が刻まれていたのではないでしょうか?もしそうであるなら撤去しなければならない状況にあった。しかし石碑である事から、撤去するのは大変だった思います。ですから、当時神道指令によって、全国的に神社の社号標石もセメントで塗りつぶされていた事から、同じ手法を取って、この石碑も仕方なくセメントで塗り潰したのではないかと思います。でなければ、文字を教える教育の場である学校で、セメントで石碑を塗りつぶすような事をするとは思えないので。石碑がなぜ塗り潰されたのかまとめると、おそらく昭和天皇の即位に合わせ昭和4年、この築山に奉安殿と共に石碑が建立され、昭和20年の敗戦後に神道指令によって塗りつぶされ、令和の現在に至るのだと考えます。しかし、もともと何と刻まれていたのかは、わからずじまい。一番上の文字が大の字に見えなくもないですが、なら「大典記念奉安殿〜」とかかなー、う〜んわかりません😑🏫謎の瓦築山の草むら放置されている瓦の徽章。日吉小学校の校章かと思いましたが、大正十二年に制定された帽章と同じマークです。これがいつ頃からここにあるかは謎ですが、神社や寺の屋根に飾られているいわゆる鬼という部分の造りに似ています。ここにあった建物といえば、先ほど述べた奉安殿ですが、これまさか本当に当時の遺物がそのまま残ってたりして。と言う事は、2024現在で少なくとも77年前のものとなるけど、見た目そんな古そうではないんですよね。ほんと何だろうこれ🤔と言う事で、この辺で終わりにしますが、本当の所はどうだったのか、当時から学校にいて全てを見ていた二宮金次郎先生に聞いてみたいですね。