戦国の美、朝倉氏の跡地。
一乗谷朝倉氏遺跡の特徴
一乗谷朝倉氏遺跡は戦国時代の集落が残る貴重な史跡です。
ソフトバンクのCMで話題となった福井市内の有名観光地です。
復原された城下町や自然の中で歴史を肌で感じられるスポットです。
平日の昼に訪れました。復原町並に車を駐車して、城下町や当主館を回りました。広大な遺跡は当時の生活ぶりが容易にわかるよう復原されており、発掘調査は今なお続いているとのことで一見の価値ありの場所です。1時間くらいで回れると思います。
休日の朝9時半過ぎに訪れました復元街並みの南北に駐車場と入口があり北側のほうが広そう復元街並みは330円でほかは離れた博物館以外は無料なのは驚き復元街並みと近くの庭園などの見どころを回る小さなルートでは小一時間、全体を回ったら一日じゃきかない広さでしたチケット購入の際に案内してくれますトイレも入口付近にあり、遺跡自体が平坦なところにあり日本では珍しいと思います。足腰に自信がなくても回りやすいと思います(安土城などはもはや軽い山登り)観光バスもそこそこ来ているのでなかなか人気なスポットのようです。
不思議で大事な歴史の遺る場所。山あいの心地よい風と緑の煌めき、井戸がたくさんある光景が印象的でポンペイ遺跡と繋がるような…事前予約で変身体験もできたようで、惜しい!町並み内で清掃されていた方が詳しい話を聞かせてくださり魅力的でした。
一乗谷朝倉氏遺跡 は、福井市南東の谷あいに広がる戦国大名・朝倉氏五代の本拠で、約100年にわたり越前の政治・文化の中心として栄えた城下町跡です。三方を山に囲まれた狭い谷に、武家屋敷・寺院・町屋・職人街が計画的に整備され、最盛期には「北陸の小京都」と称される高度な文化が花開きました。織田信長の侵攻で焼失しましたが、土中に良好な状態で埋没していたため、町並みがほぼそのまま出土。現在は復原町並や特別名勝の庭園が整備され、戦国期の生活と都市構造を立体的に体感できる、日本でも屈指の貴重な特別史跡です。
26年4月【国の三重指定/特別史跡、特別名勝(諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園etc.)、国指定重要文化財(出土品約2400点)】朝倉五代夢の跡〜博物館にて見学後、訪れました。広大な敷地に、下城戸、朝倉館跡、庭園、復元街並、上城戸跡が点在しています。復元街並みは、往時の生活を再現しており、戦国時代ながら生活水準の高さを感じる事が出来ました🍀川を挟んだ、対岸の朝倉館は広大な敷地で、唐門をくぐると、館跡、背後に庭園、山上に一乗谷城と往時朝倉氏の権勢を感じました✨(戦国時代の日本庭園は、後年のそれと比較して、自然との一体感を強く感じました。)本日は晴天で、遺跡廻りの新緑が目に眩しく、散策に最適な一日となりました^_^ありがとうございました😊
一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市に位置する歴史的な遺跡で、戦国時代に越前国を治めた朝倉氏の本拠地として知られています。この遺跡は、城下町の構造が良好に保存されており、当時の生活や文化を垣間見ることができる貴重な場所です。発掘調査により、武家屋敷や町屋、寺院などの遺構が発見され、戦国時代の都市計画や建築技術を学ぶ上で重要な資料となっています。1991年には国の特別史跡に指定され、現在は観光地としても多くの人々が訪れています。美しい自然に囲まれたこの遺跡は、歴史ファンだけでなく、自然を楽しむ人々にも魅力的なスポットです。
日本100名城 No.37スタンプは復元町並の南北両方の入口にて押印可。越前朝倉氏の朝倉氏館をはじめとして、城下町や4つの山城全てを含めたものが一乗谷城として含まれる。第36代天皇の孝徳天皇の末裔である日下部氏の流れを組む但馬朝倉氏から分かれる形で南北朝時代に朝倉広景が越前に移ったのが、越前朝倉氏のルーツ。室町時代には越前守護の斯波氏に仕え守護代となり、その後5代当主教景が結城合戦にて武功をあげた事をきっかけに朝倉氏自体が守護となる。7代当主の孝景(英林孝景)が斯波義敏を破り、一乗谷川沿いの天然の要害に居館を移した事により当城は始まる。応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧、文人らが避難してきたため、一乗谷の文化は飛躍的に発展。北ノ京と呼ばれる程の華やかな文化を開花させていた。10代当主の孝景(宗淳孝景)の代には隆盛を誇り、越前の中心として大いに栄えた。11代当主の義景の代になると、永禄の変により京を追われた足利義昭が越前に逃れてくる。義景はこれを歓迎したものの、諸大名から上洛の供奉を断られた義昭から上洛戦を求めらると、冷淡な対応を見せる。結果的に、義昭の上洛の供奉は織田信長よってなされ、義昭は将軍職に就くこととなる。その後、信長・義昭からの再三の上洛の要請に義景は応えようとせず、織田軍が越前に攻め入ろうとする事になる。上記の理由については、名門である朝倉氏である義景が、家柄の低い信長からの要請に従う事を嫌っての事との考えが主流であるが、元々若狭の領地を巡り信長・義昭とのすれ違いによる対立があった、本国の越前を留守にする事への不安があった等の説もあり、単純な問題ではない。前述の信長による越前侵攻は、浅井長政が朝倉方に着いたことにより挟み撃ちにあいかけた信長が金ヶ崎で撤退(金ヶ崎の退き口)を余儀なくされた事で一旦は事なきを得るものの、武田信玄の死による信長包囲網の瓦解、姉川の戦いでの敗北(義景は出陣していない)、義昭の追放を経て浅井・朝倉連合軍は圧倒的な劣勢に立たされる事となる。信長の小谷城責めに際して義景は2万の軍で救援に向かい、小谷城北西の田上山に着陣する。しかし、織田軍が小谷城と田上山を分断する形で山田山に柴田勝家・滝川一益・佐久間信盛らを配置し浅井氏の大嶽砦を陥落させると、義景は浅井氏を見捨てるような形で越前へ撤退を開始(ちなみに、佐久間信盛がこの撤退を見逃し追撃を遅らせた上に口答えをした事から信長からキツい叱責を受けており、後の佐久間氏追放の一因とする説もある)。刀根坂で織田信長本隊に追いつかれ攻撃を受けたため、山崎吉家らを殿(しんがり)として越前へ逃れようとする。この戦いで殿となった山崎吉家、朝倉道景、一色龍興らは討死し朝倉家は崩壊状態となる。義景自身は手勢を連れ何とか一乗谷に帰還するも、圧倒的劣勢のこの状況で馳せ参ずる者も居らず、従兄弟(諸説あり)の景鏡に大野郡にて再起を図るよう促され一乗谷を捨てて大野へと向かう。しかし既に木下秀吉により景鏡は調略されていた。義景は仮宿として指定された六坊賢松寺にて景鏡の手勢200に攻められ自害。景鏡は義景の首を持って投降した。これにて名門越前朝倉氏が途絶える事となると解釈されるが、景鏡を含め朝倉家でも助命されたものはいる。彼等を滅ぼし、越前朝倉氏を完全に滅ぼしたのは一向一揆勢である。一方、一乗谷は織田信長によって攻め込まれ焼き払われた(ちなみに、この際に、最も目立って抵抗したのは朝倉勢力ではなく捕虜となっていた若狭武田氏の者達であったとの事)。信長により完全に焼き払われており、何一つとして当時の建物は残っていないが、復元整備がされており、復元街並等で当時の隆盛を窺い知れる。館跡は土塁と堀で囲まれており、それを窺い知れる場所もある。館の背後には畝上空堀が敷かれるなど天然の要害で堅固な城とされているが、籠城戦が行われておらず且つ信長により攻められあっさりと灰燼に帰している事からも、戦国後期の城郭として堅固なものであったかは疑問符は残る。
初めて行く方は近くの資料館を先に見学することをおすすめします。ゆっくり見学には約半日掛かります。とても貴重な遺跡なので一度見学する価値はあります。レンタル自転車もあるので時間のない方はおすすめします。
栄華を極めた大名朝倉氏の屋敷と城下町の大規模な遺跡が残っています。建物は全て無くなっていますが、柱の礎石、井戸、掘割など生々しく残っており、かつての繁栄を偲ぶことができます。敷地内に大きな庭石を配した庭園跡は、いま見ても美しく感銘を受けます。
| 名前 |
一乗谷朝倉氏遺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0776-41-2173 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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再現された街並みで一乗谷の生活を体感する事ができました。ここの前に一乗谷朝倉氏遺跡博物館に行って予習してから来たほうが、より感慨深いものになると思います。スタッフさんもみんな親切で一生懸命説明やおもてなしをしてくれます。 ただ訪問した日は猛暑でお客さんも皆汗だく。あいてるスペースで冷たい飲み物やかき氷などを売っていたらいいなと思いました。