戦国の美、朝倉氏の遺跡。
一乗谷朝倉氏遺跡の特徴
一乗谷朝倉氏遺跡は戦国時代の集落が残る貴重な史跡です。
ソフトバンクのCMで話題となった福井市内の有名観光地です。
復原された城下町や自然の中で歴史を肌で感じられるスポットです。
日本100名城 No.37スタンプは復元町並の南北両方の入口にて押印可。越前朝倉氏の朝倉氏館をはじめとして、城下町や4つの山城全てを含めたものが一乗谷城として含まれる。第36代天皇の孝徳天皇の末裔である日下部氏の流れを組む但馬朝倉氏から分かれる形で南北朝時代に朝倉広景が越前に移ったのが、越前朝倉氏のルーツ。室町時代には越前守護の斯波氏に仕え守護代となり、その後5代当主教景が結城合戦にて武功をあげた事をきっかけに朝倉氏自体が守護となる。7代当主の孝景(英林孝景)が斯波義敏を破り、一乗谷川沿いの天然の要害に居館を移した事により当城は始まる。応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧、文人らが避難してきたため、一乗谷の文化は飛躍的に発展。北ノ京と呼ばれる程の華やかな文化を開花させていた。10代当主の孝景(宗淳孝景)の代には隆盛を誇り、越前の中心として大いに栄えた。11代当主の義景の代になると、永禄の変により京を追われた足利義昭が越前に逃れてくる。義景はこれを歓迎したものの、諸大名から上洛の供奉を断られた義昭から上洛戦を求めらると、冷淡な対応を見せる。結果的に、義昭の上洛の供奉は織田信長よってなされ、義昭は将軍職に就くこととなる。その後、信長・義昭からの再三の上洛の要請に義景は応えようとせず、織田軍が越前に攻め入ろうとする事になる。上記の理由については、名門である朝倉氏である義景が、家柄の低い信長からの要請に従う事を嫌っての事との考えが主流であるが、元々若狭の領地を巡り信長・義昭とのすれ違いによる対立があった、本国の越前を留守にする事への不安があった等の説もあり、単純な問題ではない。前述の信長による越前侵攻は、浅井長政が朝倉方に着いたことにより挟み撃ちにあいかけた信長が金ヶ崎で撤退(金ヶ崎の退き口)を余儀なくされた事で一旦は事なきを得るものの、武田信玄の死による信長包囲網の瓦解、姉川の戦いでの敗北(義景は出陣していない)、義昭の追放を経て浅井・朝倉連合軍は圧倒的な劣勢に立たされる事となる。信長の小谷城責めに際して義景は2万の軍で救援に向かい、小谷城北西の田上山に着陣する。しかし、織田軍が小谷城と田上山を分断する形で山田山に柴田勝家・滝川一益・佐久間信盛らを配置し浅井氏の大嶽砦を陥落させると、義景は浅井氏を見捨てるような形で越前へ撤退を開始(ちなみに、佐久間信盛がこの撤退を見逃し追撃を遅らせた上に口答えをした事から信長からキツい叱責を受けており、後の佐久間氏追放の一因とする説もある)。刀根坂で織田信長本隊に追いつかれ攻撃を受けたため、山崎吉家らを殿(しんがり)として越前へ逃れようとする。この戦いで殿となった山崎吉家、朝倉道景、一色龍興らは討死し朝倉家は崩壊状態となる。義景自身は手勢を連れ何とか一乗谷に帰還するも、圧倒的劣勢のこの状況で馳せ参ずる者も居らず、従兄弟(諸説あり)の景鏡に大野郡にて再起を図るよう促され一乗谷を捨てて大野へと向かう。しかし既に木下秀吉により景鏡は調略されていた。義景は仮宿として指定された六坊賢松寺にて景鏡の手勢200に攻められ自害。景鏡は義景の首を持って投降した。これにて名門越前朝倉氏が途絶える事となると解釈されるが、景鏡を含め朝倉家でも助命されたものはいる。彼等を滅ぼし、越前朝倉氏を完全に滅ぼしたのは一向一揆勢である。一方、一乗谷は織田信長によって攻め込まれ焼き払われた(ちなみに、この際に、最も目立って抵抗したのは朝倉勢力ではなく捕虜となっていた若狭武田氏の者達であったとの事)。信長により完全に焼き払われており、何一つとして当時の建物は残っていないが、復元整備がされており、復元街並等で当時の隆盛を窺い知れる。館跡は土塁と堀で囲まれており、それを窺い知れる場所もある。館の背後には畝上空堀が敷かれるなど天然の要害で堅固な城とされているが、籠城戦が行われておらず且つ信長により攻められあっさりと灰燼に帰している事からも、戦国後期の城郭として堅固なものであったかは疑問符は残る。
初めて行く方は近くの資料館を先に見学することをおすすめします。ゆっくり見学には約半日掛かります。とても貴重な遺跡なので一度見学する価値はあります。レンタル自転車もあるので時間のない方はおすすめします。
栄華を極めた大名朝倉氏の屋敷と城下町の大規模な遺跡が残っています。建物は全て無くなっていますが、柱の礎石、井戸、掘割など生々しく残っており、かつての繁栄を偲ぶことができます。敷地内に大きな庭石を配した庭園跡は、いま見ても美しく感銘を受けます。
逆説の日本史を読むと最初の戦国大名は朝倉敏景との話がでてくる。実際にとんでもないスケール感が感じられ、この街がすべて焼きつくされて昭和の時代まで土に埋もれたままとは歴史を感じつつも恐ろしさも感じざるを得なかった。少し離れているがぜひ一乗谷朝倉氏遺跡博物館もセットで見ておくことを強く勧めます。一乗谷は国内6件だけの国の三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)を受けていますし、残り5箇所はすべて世界遺産になっていますので将来世界遺産になるのは間違いないですが、それまでは次々発見される遺跡に思いを馳せましょう。
2025年10月下旬。上高地への途上で訪ねました。福井方面から伺ったので北側P1駐車場に停めました。別棟の遺跡博物館とのセット入場券を購入。特別展示共通観覧券(一般)が¥1,060-。200m程ある復原された街並み。一部の家屋内では無料ガイドさんによる解説も。南側の入場口にはお土産屋もあります。屋外の諏訪館跡庭園などを周ってP1までゆっくり探索すると1時間半程要します。天候が良かったこともあり素敵な遺跡巡りができました。
福井に来たら、ココ一乗谷朝倉氏遺跡は来たかった場所です。復原町並で町家群や武家屋敷の町並み見学し、当時の生活にタイムスリップすることができました。その後、おすすめ見学ルートの「ちょっこし」ルートの復原町並-諏訪館跡庭園-中の御殿跡-湯殿跡庭園-朝倉館跡で復原町並に戻ってくる、1.0km 約1時間のコースを散策。美しい山間の場所で当時は栄華を極めた素敵な屋敷と庭園で煌びやかな暮らしをしていたのかと、思いを馳せることができ、良い時を過ごすことができました。
あまり遺跡には行かないのですが、予想以上に楽しかったです。有料エリアと無料エリアがあり、無料エリアはいつでも出入りできます。無料エリアは「跡」があるだけで何もないと言えばそれまでですが、ここでどんな暮らしがされてたのかなぁと想像を膨らませられる方や、自然が好きな方はなかなか楽しめます(登山エリアもあります)有料エリアは当時の建物が忠実に再現されており、詳しいスタッフさんが色々教えてくれます。信長勢に焼かれてしまった焦げ跡のついた石がそのまま使われており、何だかゾワっとしました。桜や紅葉の季節はより綺麗でしょうね。今回少し駆け足で回ってしまったので、機会があればまた訪れたいです。
戦国期北陸の雄であった朝倉氏の居城のあと。詳しくはウィキペディアで朝倉氏の項をご参照下さい。身も蓋も無い表現をすると、織田信長にケンカを売って返り討ちにあった朝倉氏でしたが、一乗谷に今に残る遺跡からその栄華が相当なものだったことが伺われます。地政学的なところも面白く、谷の地形を見事なまでに防御に活かしである点に感心します。また商業施設や河川交通、街道と絡め、美濃や近江との交通を見据えた都市デザインにも驚きました。晩秋に訪問しましたが、紅葉もキレイでした。福井駅西口からの路線バスで「復原町並」あたりに行き、ここより徒歩で巡り歩くのおすすめです。
戦国時代の集落がそのまま残されていたという意味では本当にすごいんだけど、なんか普通にめちゃくちゃ綺麗だからすごいのかすごくないのかすご過ぎる程綺麗だからすごいのか素人にはようわからん!でもこの広さに町があったという痕迹は生々しくていい!平地って本当に貴重だったんだな〜
| 名前 |
一乗谷朝倉氏遺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0776-41-2173 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市に位置する歴史的な遺跡で、戦国時代に越前国を治めた朝倉氏の本拠地として知られています。この遺跡は、城下町の構造が良好に保存されており、当時の生活や文化を垣間見ることができる貴重な場所です。発掘調査により、武家屋敷や町屋、寺院などの遺構が発見され、戦国時代の都市計画や建築技術を学ぶ上で重要な資料となっています。1991年には国の特別史跡に指定され、現在は観光地としても多くの人々が訪れています。美しい自然に囲まれたこの遺跡は、歴史ファンだけでなく、自然を楽しむ人々にも魅力的なスポットです。