八木之宮の面影、神社巡りの旅。
養基神社の特徴
養基神社は八木之宮としての歴史があります。
開けた境内では、郷社の風情を感じられます。
養基村の面影が残る特別な神社です。
かつてあった、養基村(やぎむら)の面影当時の村名は、この養基神社に由来していました。昭和の大合併のさいに分割され、現在の揖斐郡揖斐川町南部(脛永)と池田町北部(粕ヶ原・田中・沓井)に該当しています。江戸時代末期、この地域は美濃国池田郡で、大垣藩領、旗本領でした。1897年(明治30年)4月1日[1] ->>大野郡の一部と池田郡が合併し、・・揖斐郡となります。1897年(明治30年)4月1日 ->> 粕河原村、田中村、沓井村、・・脛永村が合併し発足しました。1956年(昭和31年)9月30日 ->>分割により、西部(旧・粕河原村、・・田中村、沓井村)は池田町に、・・東部(旧・脛永村)は揖斐川町に・・編入され、同日養基村廃止。・・粕川以南の揖斐郡の南部(温知村、八幡村、・・宮地村、養基村)は、共同で・・揖斐郡学校組合立揖南中学校・・(現・池田町立池田中学校)を設置しており、1953年(昭和28年)には、この4ヶ村での合併が決められ協議会が設置されました。養基村はこの4ヶ村の合併でほぼまとまっていたのですが、揖斐町との関係も深く、一部の住民からは揖斐町との合併という意見も出てきました。そのような中、揖斐町から合併の申し込みが行なわれたため、住民のみならず村議会での対立を招くこととなりました。養基村を除く3ヶ村は1955年(昭和30年)4月1日に合併し町制施行、池田町し成立しました。この社は、粕川(春日川)流域にある平地の中央部に鎮座します。ここは、揖斐川との合流地にも近い肥沃な土地。東西に走る道に面して、南向きに境内があります。鳥居をくぐると、正面に拝殿。拝殿の後方に、垣に囲まれて本殿が立っています。続日本後紀嘉祥二年(849年)七月の條に、「美濃國池田郡養基神、預二官社一」とある古社で、式内社・養基神社にと書かれており、養基神社比定されている神社です。つまり、創建はそれよりも前となります。祀神・養基大神がいかなる神であるか不明ですが、八木大明神、八岐大明神とも称される神社で、粕川扇状地にある、八方に広がる分岐点の神、あるいは水流の分岐の神ともいわれています。地元では、市杵島姫命と伝えられているそうです。
2/11参拝普通郷社美濃国式内社39座めぐり。
「やぎ」神社と読み、かつて「八木之宮」と呼ばれていたとか。式内社に比定されてますが祭神(養基大神)の由来はよく分からないようです。境内社は本殿左に八幡神社・春日神社・御鍬神社、右に市姫神社・神明神社・稲荷神社がそれぞれ合祀されています。拝殿に向かって左側の対になっていない石灯籠に「万延元申(1860)年十二月日」の紀年銘が刻まれていました。
名前 |
養基神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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かなり開けた神社でした。天候によってイメージが変わるかと。