石垣と桜、愛される城跡。
加納城跡の特徴
加納城跡は徳川家康が命じた城で、石垣が良好に残っています。
城跡の風景には桜が美しく、特に春が訪れると魅力的です。
駐車場が完備されており、静かな環境で歴史を感じることができます。
本丸後が公園になっているが、本丸を囲む石垣が残っているのと、両入り口に説明文があるぐらい。
天下普請で築かれた加納藩の居城の跡です。河川と水堀を多用した平城でしたが、今は本丸が残るのみです。岐阜駅から徒歩20分ぐらいで着きます。車なら本丸南側の堀跡が駐車場として利用できます。本丸内部はグラウンドゴルフ等ができる等公園になっているため、ある程度きれいになっていますが、西側にある桝形虎口はいい感じに残っているもののあまり整備されておらず見学しにくい感じです。
城の形状 平城天守閣 独立式層塔型3重4階御三階櫓(現在は無い)・歴史文安2年(1445年)川手城の守護のために土岐氏に仕えていた斎藤利永により築城された。その後天文7年(1538年)〜関ヶ原の戦いまで廃城となり放置される。慶長7年(1602年)徳川家康公の義理の息子(家康公の長女・亀姫の娘婿)にあたる奥平信昌が入城します。娘の婿のために家康公自らが築城に携わり、さらに本多忠勝が普請奉行となり近隣大名を動員した天下普請の築城を開始します。加納城には、岐阜城の廃材が利用され、当時の岐阜城は加納城二の丸にあった御三階櫓に転用され、本丸が完成と同時に加納藩が立藩します。加納信昌の石高は10万石。家督を忠政に譲ったが忠政に6万石を譲ったが、隠居料と称して4万石は自身で所領し実質的に藩の実権を握りました。その後、忠政が35歳の若さで先立たれてしまったため大阪冬・夏の陣に参加出来ず、自身も元和元年(1615年)に死去。家督は忠政の子の忠隆が継ぎますがやはり25歳の若さで急死し奥平家は断絶してしまいます。替わって、信昌の外孫にあたる大久保忠職(ただもと)が5万石で入封するも、すぐに2万石加増され播磨(現在の兵庫県)明石藩に転封します。入れ替わるように松平(戸田系)光重が7万石で入封します。光重は農民に対して厳しい年貢を取り立てました。そのため幕府に対して直訴が相次いだため、光重の子、光熙(みつひろ)は1万石減封され6万石で山城(現在の京都府)淀藩へ移封されます。替わって、備中(現在の岡山県)松山藩(もしくは高梁藩=たかはし・はん)から安藤信友が6.5万石で入封します。信友は非常に優秀な藩主で幕府の要職の寺社仏閣を取り仕切る寺社奉行、幕府中枢の政治を取り扱う老中として活躍するが、信友から家督を継いだ信尹(のぶただ)は逆に非常に凡庸な人間で贅沢三昧な藩主だったため藩の財政は悪化し、年貢や御用金要求が重なり百姓の生活は困窮してしまい、他藩に逃げ出す百姓が出てしまい、家臣たちは信尹を幽閉してしまいます。しかしこのことが幕府にばれて、信尹は強制的に隠居させられ、5万石に減封され陸奥(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県のこと)磐城平藩へ移封されます。武蔵(現在の東京都、埼玉県の一部)岩槻藩より永井直陳(なおのぶ)が3.2万石で入封し以降明治維新まで永井家が統治します。歴代の藩主の中に幕府の要職の若年寄を輩出しています。戊辰戦争では藩主永井尚服(ながい・なおこと)は、岩倉具視(いわくら・ともみ)の3男岩倉具定に帰順し新政府軍として従軍し明治2年(1869年)の版籍奉還時に加納藩知事、明治4年(1871年)に廃藩置県で加納藩は加納県に明治5年(1872年)に加納県は岐阜県に編入されました。藩主は子爵となります。廃城令が出された後に城は破却されます。明治33年(1900年)に岐阜県師範学校が置かれ、本丸跡地には運動場がつくられます。明治39年(1906年)に三の丸跡地に加納尋常小学校が移転となり昭和14年(1939年)に日本陸軍第51航空師団司令部がおかれ、戦後、昭和29年(1954年)〜昭和50年(1975)まで自衛隊の駐屯地となる。昭和58年(1983年)に加納城跡地は国の史跡に指定されます。・加納藩の産業加納藩では、現在の岐阜県の伝統工芸品になる和傘が盛んで年間50万本の和傘を作っていました。今日の岐阜和傘に受け継がれています。アクセスJR東海道本線、高山本線、名鉄名古屋本線、名鉄各務原線、岐阜駅より徒歩19分です。
徳川家康が作らせたお城という事で以前から興味がありやっとこれました!城郭の殆どは街に消えてますが、本丸付近はしっかり残ってました!本丸内は公園になっていて、お子さんや年配の方々の憩いの場になってました。説明の看板がとてもわかりやすく、公園内や周りの石垣付近、それに以前あった城郭も説明看板を見ると当時の状況が何となく分かって想いを馳せることができますね👍岐阜市の都会にありながら本丸の石垣が今でも残っているなんて凄いことです!楽しかったです♪
本丸曲輪と石垣が良好な形で残っている。とくに本丸南側の石垣は野面積みにしては結構な高さで見る価値大。急傾斜な土塁も綺麗に残っていて、江戸期の平時の平城の雰囲気をなんとなく感じることができる。地名度は稲葉山や大垣、墨俣なんぞより低いと思うが、国指定史跡への指定は流石に伊達ではなく、実はかなりの名城なのでは?と思う。
城趾は大きな公園として利用されていました。とくに犬の散歩で訪れる人が目立ちました。お城の名残りとしての石垣やお堀跡の保存状態が良くて単なる公園ではなく城趾の雰囲気を楽しめます。
城跡です😀石垣が残った状態で地域の人に愛されている公園という感じです。
関ヶ原の合戦の後、徳川家康に命により築城された城です。石垣は関ヶ原の合戦の前に落城した岐阜城の石垣を運び利用されたとされます。初代の城主は譜代の奥平信昌10万石で後に代々譜代大名が城主を務めました。現在残ってるのは土塁、石垣ぐらいなもので公園となっており子供達が遊んでいました。
空いていて止める心配のない無料駐車場があります。加納城は関ヶ原合戦後、徳川家康が豊臣への備えのために築城を命じられたそうです。縄張りは徳川家康自身が行い、普請奉行は本多忠勝だったそうです。近世加納城の初代城主は、家康の娘亀姫の婿である奥平信昌で10万石が与えられたそうです。そして明治の廃城令により廃城処分されたそうです。そんなに高くない石垣がずっと続いていて、広い敷地が本丸だそうです。300メートルぐらい離れたところに二の丸、三の丸跡があり加納小学校にも石垣があります。また、1キロほど北に亀姫の墓があります。加納城とは関係ないですが、加納城を一周しようと歩いていたら、掲示板に「信長まつり」「レジェンドu0026バタフライ」のキムタクのポスターが貼られていました。
名前 |
加納城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
058-214-7157 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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あまり調べずに訪問しました。石垣と土塁を見ることができます。今ある城趾の周りは水で区切られていたようです。三原城みたいな感じだなと思いました。