斎藤実盛の兜が祀る神社。
多太神社の特徴
小松駅から少し離れた旧商店街に位置する神社です。
実盛の兜が奉納された記念すべき場所である神社です。
1689年、芭蕉が訪れた歴史的な神社として有名です。
多太神社(ただじんじゃ)。石川県小松市上本折町。式内社(小)、旧県社。主祭神:衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこのみこと)(配祀)仁徳天皇 応神天皇 神功皇后比咩神軻遇突智神(かぐつちのかみ)大山咋命 素盞嗚命 継体天皇 ほか資料によると、社伝によると、六世紀初め武烈天皇五年六月に男大跡王子(後の継体天皇)によって勧請された古社。現在の祭神は、衝桙等乎而留比古命。衝桙等乎而留比古命は、出雲国風土記記載の秋鹿郡多太郷の地名起源説話に登場する神。当社の社名である「多太」からの連想によるものと思われ、以前は、大田田根子命が祭神と考えられていたらしい。こちらも社名「タダ」からの付会のようだが。寛弘五年(1008)に花山天皇の遺勅により、舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し多太八幡宮と称したという。当社は、兜の八幡様と呼ばれ、実盛の兜を社宝としており、参道にも「八幡様の兜」の像がある。この兜は、斉藤実盛の着用していたもの。実盛は、寿永二年源平の合戦の時、加賀の篠原の地で73歳で討死にした平家の武将。初め源氏の義朝に仕えたが、平治の乱後、平家の宗盛に仕え、武蔵の国・長井の庄の別当として居住したという。争乱の中、幼少の木曽義仲の命を救ったこともあったが、平家敗亡の軍の時、手塚の太郎光盛に討たれた。武者の黒髪を訝って首を洗ったところ、白髪が現れたという。敵に老武者と侮られることを口惜しいと、白髪を黒く染め、潔く散った老将軍であった。その後、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献し、現在、国の重要文化財となっている。元禄二年(1689)松尾芭蕉が奥の細道の途次、旧暦の七月二十四日に北陸路を金沢から小松へ入り当地に宿泊して、句会を開催。当社へ詣でて、実盛の兜や袖を拝観し、木曽義仲と斉藤実盛の数奇な巡りあわせに思いをはせ「むざんやな 甲の下のきりぎりす」 芭蕉という歌を奉納した。寛文七年西宮社を配祀し、明治十五年県社に列した。とあります。
寿永2年(1183)源平合戦のとき、木曽義仲が本社に詣で幼少期の命の恩人でありながら敵将として敗れた斉藤実盛を讃えるとともに兜鎧の大袖等(国指定重要文化財)を奉納し戦勝を祈願した神社です。またその源平合戦から500年後、「奥の細道」の道中に多太神社を訪れた松尾芭蕉は兜を見て「むざんやな甲の下のきりぎりす」と句を詠み、實盛をしのんだと言われています。毎年7月27日は「かぶとまつり」が行われ兜の一般公開や能の奉納などが行われています。
御朱印ありました。実盛のかぶっていた兜などがあるらしいのですが、誰もいらっしゃらず、見られませんでした。
休日でしたが全く人の気配がありませんでした。
宝物殿は予約がいります。300円×2人で丁寧ねいに説明して頂きました。伊藤実盛の兜が時を超えて此処に存在している事に感動です。この神社にはもっと宝が眠っているような予感がしました。
初詣でに初めて行きました。おみくじは何処にでもあるありきたりのもので、妻は大吉、私は吉出たのに、全然嬉しくありませんでした。このタイプでは今まで凶が出た事ありませんから。
げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打つたり。むざんやな 甲の下の きりぎりす。
小松駅から少し離れた旧商店街らしき通りにあります。地味ですが非常に雰囲気があります。平家の老将斎藤実盛が着用したという兜が社宝。木曽義仲が供養としてこの神社に奉献したそうです。松尾芭蕉もおくのほそみちでこの地を訪れており、この兜を詠んでいます。「むざんやなかぶとの下のきりぎりす」。こんなにドラマチックなエピソードがあるので、町興しに利用したらよいと思います。
斎藤実盛の鎧・兜が祀られている神社です。木曽義仲の討ち取られた斎藤実盛。実盛は義仲の命の恩人であり、その死を悔やんだ義仲により甲冑もこの神社に丁重に祀られました。駐車場あります。
| 名前 |
多太神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ / |
| 電話番号 |
0761-22-4089 |
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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多太神社様⛩️静かな住宅街にあります。常時、宮司さんはいませんが必要に応じて対応してくれるみたいです。ありがとうございました。