武田勝頼公の甲、歴史を感じる。
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| 名前 |
設楽原古戦場いろはかるた「こ」 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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甲田(こうでん)は、この辺りの田んぼで「武田勝頼公の大事な甲(かぶと)が捨てられた」や「戦後に武田将兵の甲が多数発掘された」など、長篠合戦にまつわる逸話が残されています。この中の「甲が捨てられた」という逸話については「甲陽軍鑑」にそれに関連する記載があります。武田家ではなく諏方家を継ぐために諏方勝頼として育った勝頼公は、信玄公の遺言で武田家の当主を表す旗などの使用は禁じられます。しかし唯一、信玄公秘蔵の「諏方法性兜」だけは着用を許され、勝頼公もこの兜を秘蔵の品として大事に扱っていたようです。長篠合戦で敗れた武田軍は総崩れとなりますが、合戦は5月(今の7月)の暖かい天候だったため、勝頼公は諏方法性兜を脱いで退却に付き従う初鹿野伝右衛門尉昌久に持たせます。しかし、伝右衛門尉は退却の忙しさのあまり、この兜を捨ててしまったそうです。これを見つけた小山田弥介なる人物が「名高い兜を捨てるのは如何なものか」と戻り、拾って持ち帰ったとのことです。「甲陽軍鑑」ではわざと捨てた旨の記載がありますが、誤って落としたという逸話も残っているそうです。ちなみに勝頼公の退却に付き従った武将は、伝右衛門尉と土屋昌恒の2人だけで、2人とも合戦後に勝頼公の側近として活躍するほどの人物のため、わざと大事な兜を捨てた可能性は低いのではないかと思われます。後の武田家滅亡の際に伝右衛門尉は勝頼公の元に馳せ参じようとしますが、それを阻止しようとする地元民に妻子を人質に取られ参陣はかなわなかったとの記載が「甲陽軍鑑」にあります。