後閑城と浅間山、歴史の息吹。
後閑城跡の特徴
武田信玄配下の新田信純の居城として知られ、戦国の名残があります。
山城の土塁がしっかり保存されていて、その歴史を感じられる場所です。
遠く浅間山と妙義山を望む美しい公園で、雰囲気がとても良いです。
後閑城は後閑氏の居城として知られています。もともとは依田氏の城でしたが、箕輪城が武田信玄によって攻略されると、新田信純が後閑城主として入城し、後閑氏を名乗りました。武田氏滅亡後は北条氏に属し、1590年(天正18年)の「小田原征伐」では松井田城の大道寺政繁の指揮下に入りましたが、北条氏の滅亡とともに廃城となりました。現在城址は妙義山、榛名山を一望できる「後閑城址公園」として整備されており、三重の堀切など良好に遺構が残っています。また二の丸櫓台には模擬物見櫓が建てられています。
遠く浅間山と妙義山を望む山城です。城の中核は平成11年に整備され公園となっています。城から秋間梅林までのハイキングコースもあります。公園には、桜が植樹されており、時期には、ライトアップされます。
キレイな四阿が3カ所ほどあり、それのどれにも「○○庵」など名前が付いています。本丸のモノは土足禁止の小上がりまであり、景色がとてもよく桜の枝花が垂れ下がる場所。桜祭りを開催するようで、もしかしたら有料なのかなーと思わせます。トイレの個室は和式なので、苦手な方は注意。洋式の多目的トイレも一部屋ありますが、アプローチの道が坂だったり石敷きだったりで、まあまあバリアがあります。
信州佐久の依田忠政が関東管領山内上杉氏に招かれて後閑の地を与えられ、この地に約7年を掛けて築城したと伝わる。その後、清和源氏新田氏の子孫、新田景純がここに移り、以後、後閑氏を名乗る。その後、後閑氏は影純の子、後閑伊勢守信純の代には、武田信玄に従って三方原の戦い、武田勝頼に従って長篠の戦い、高天神城攻防戦に参加。武田氏滅亡後は小田原北条氏に従い、北条氏滅亡とともに後閑氏も領主としては没落し、後閑城も廃城となった模様。城跡は安中市によって平成3年度から5年度に掛けて発掘調査され、その後は城址公園として整備され、山城保存整備の模範的存在となっている。南北に延びる峰を大きく分断する3つの大堀切は圧巻。貫高1000貫文程度の小領主が築いたとは思えない大規模城郭である。本丸からは西は松井田方面、東は板鼻までが眺望できる。城下には旧東山道が走っており、江戸時代に中山道が整備されるまでは、こちらが信濃への主要交通路であったことが考えられる。
戦国時代に上野国に進出した信濃国御嶽城主の依田信濃守が築城し、後に新田氏の居城となり、北条氏が豊臣秀吉公の小田原征伐で滅亡すると、そのまま廃城になつたと伝わる。集落に面した丘陵の上にあり、公園化されている。西第三郭広場〜〜本丸(百庚申がある)〜東郭〜二の丸〜櫓台〜東郭〜北郭の順に探訪…。メリハリの利いたダイナミックな堀切が一番の見どころで、郭も本丸を囲むように東西南北に配されている。休憩施設も完備し、ゆっくりと古城の雰囲気を楽しめる…🌸の咲く頃にもう一度訪ねて、妙義や浅間、赤城の勇姿をここから眺めて見たい。🚻🅿️あり。2026/2/5
武田信玄配下の新田信純の居城です。あまり予備知識なしに訪れたのですが、こんなに綺麗に遺構が残っている山城は初めて見ました。山城だけあって高低差を活かした構造になっていて、堀切がしっかり残っているので、各曲輪の区切りがよく確認できます。真夏だったので草木は生い茂っているものの、それでも綺麗すぎる位でした。冬場なら草木が落ち着き、さらに遺構がよく確認できると思います。機会があれば来年の冬にでももう一度訪れたいと思います。駐車場·トイレあり。
2018/4/29駐車場もある綺麗な公園。ちょっと綺麗すぎるのがどうかというくらいだが、遺構を保ちながら整備されている感じ。それぞれの曲輪や堀、土塁がなかなかいい感じで遺されており、一見の価値あり。かなり規模の大きな城だったようだ。
期待していなかったが、山城の土塁がしっかり保存されている。建物自体は無いが土塁、郭がしっかり残っていて全体の構造が分かるようになっている。本丸跡に丙申信仰の石碑が並んでいて、ちょっと不気味だが、そのおかげで保存状態が良かったのだと考えられられる。公園になっているとの事だったので、平坦な児童公園的な感じかと思っていたが、しっかりと山城の縄張りだった。
| 名前 |
後閑城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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公園なだけあって雰囲気良い所です。桜が咲いていればとても綺麗だったろうなと思いました。