歴史感じる広々構内、笑顔あふれる駅。
東多久駅の特徴
1960年代の炭鉱全盛時代を思わせる広々とした構内です。
長編成の貨物列車が走る情景を想像できる駅です。
学生の笑顔が行き交う、長閑で素敵な駅でした。
学生さんが笑顔で行き交う素敵な駅でした。汽車も素敵🙆♂️
大きな道から一本奥に入った道沿いにある駅。特筆すべき駅ではなかったが、電気学会の創設者 志田林三郎の出身地のようで銅像が設置してあった。周りは住宅街で民家が多く、駅前の土地の広いので送迎には困らない。公民館かのような建物があったが駅舎ではないようで、ホームへはその建物とトイレの間の敷地を通って行くようだ。
長閑な駅です。
東多久駅は、JR九州の唐津線の駅です。明治36年(1903年)九州鉄道により「別府駅(べふえき)」として開業しました。明治44年(1911年)東多久駅に改称しました。平成10年(1998年)旧駅舎を解体しました。平成13年(2001年)「東多久交流プラザ」を建築して駅舎の代わりとしました。相対式ホーム2面2線を有する無人の地上駅です。東多久交流プラザの前には「志田林三郎」像が建立されています。志田林三郎(1856〜1892年)は、肥前佐賀藩(現佐賀県多久市)生まれの物理学者・電気工学者で、電気学会の創設者です。饅頭屋の子として小城郡東多久村別府に生まれますが、神童の誉れ高く、佐賀藩家老の多久氏の家臣に取り立てられます。明治4年(1872年)藩費により工部省工学寮(現在の東京大学工学部)に入学し、ウイリアム・エアトン等の下で電信学を学びました。明治12年(1879年)電信科を首席で卒業し、日本初の工学士となりました。逓信省電信局長に就任後、明治13年(1880年)スコットランドのグラスゴー大学に留学しました。帰国後、工部省電信局で日本の電信技術のために働きつつ、工部大学校(のちの東京帝国大学)教授として電気工学等の専門教育に励みました。明治19年(1886年)隅田川の水面を導体として用いた導電式無線通信実験は、マルコーニの無線実験より9年前に行われたとして評価され、明治21年(1888年)日本初の工学博士となりました。明治21年(1888年)電気工学の普及、発展を進めるために電気学会の創設を宣言し、逓信省大臣だった榎本武揚を会長に据えて設立しました。明治24年(1891年)夏より大磯に転地静養してていましたが、明治25年(1892年)麻生の赤十字病院にて36歳で亡くなりました。駅がある「東多久(ひがしたく)」という地名は、かつてあった肥前佐賀藩の小城郡(おぎぐん)東多久村に由来します。明治22年(1889年)別府村・納所村が合併して、東多久村が発足しました。昭和29年(1954年)東多久村・南多久村・北多久町・多久村・西多久村の合併により、多久市が発足しました。多久(たく)という地名は、奈良時代(713 年以降)に編纂された肥前国風土記に登場する「高来(たく)」という地名に由来するとされます。当時主要な所を結ぶ官道には中継地としての「駅」が置かれていました。当時九州の政治の中心であった太宰府から各地に伸びた官道にも駅が作られ馬などが常時置かれていました。ここ高来郷の駅は、現在の多久市東多久町別府(べふ)にあったとされています。ここで官道は2つに別れ、一つは北西の笹原峠を越え厳木・相知を通って唐津へ、もうひとつは南西の馬神峠を越えて武雄市北方町へと向かっていました。
無人で古い。
構内が広く貨物列車も長編成の列車が走っていたと想像できる。唐津線の主力はキハ47で黄色いキハ125もキハ47と編成を組んで走る列車もある。駅周辺はスーパーや農協等がある。
1960年代まで続いた炭鉱全盛時代を彷彿とさせる広々とした構内が印象的です。当時はいったい何両編成の列車が停車したのでしょうかね。
| 名前 |
東多久駅 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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公衆トイレを使わせて頂きました。