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名前 |
山村のかねふり地蔵尊 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
以前からずっと気になっていた場所です。御在所・環境・雰囲気、すべて地元住民の方のためのお地蔵さま、ですね。地蔵堂とそのわきの付け屋敷(おそらくは集会所跡?)、とてもいい感じ。完全にその場に溶け込んでおります。勉強不足で申し訳ありません、周囲を観察しただけでは、その由来等は見えませんでした。しかしお前の存在よりはるか昔よりここにいるのだぞ、というものはヒシヒシと伝わってくるので不思議です。安産・子育ての幟が、すべてを教えてくれます。かねふり地蔵尊の資料が「猿島町史」にあり、じつは大変なご地蔵さまであったことがわかりました。町史によりますと、こちらは安政・万延・文久のころに、いわゆる「流行り神(はやりがみ)」として、地元の方々は言うに及ばず、江戸・越後からの参拝者があったことが、記録に残されているとのこと。ご利益はお金を降らす招福があるということらしく、ある一時期はかなりの参拝者でにぎわったようである。町史の資料を引かせていただくと、「右の地蔵尊、当二、三月の頃より流行り出、日々の参詣増々群集いたし、五月・六月・七月の頃の参詣、栗橋あたりよりは大舟・子舟乗合いにて参詣の者、日々之賑わい、その外東西南北二、三里、四、五里泊り懸け、後々は遠方の参詣、四月十四日・二十四日は千人余りの参詣、その外日々弐、参百人程度の人絶えず、当町抔(抔は複数の意、町々ということであろう)茶屋・旅籠屋は勿論、小商い致候者、余程の助成に相成り申し候、誠に以ってご利益の程筆紙に尽くしかたき事共に御座候・・云々」と、ある意味人々の熱狂ぶりがうかがえます。そうした盛況の時期は、慶応年間にあった地蔵堂の火災焼失で、急速に静まっていったようです。こうした「流行り神」はこの周辺、よく見るとあちこちに点在しており、その多くが ”どうしてこんなところ?” と思うような環境です。そしてその多くが、かつてあったであろう賑わいは、もはやありません。(野田の堤台・子育て地蔵尊も同じでしょうか?)かねふり地蔵尊も然り。先にも書きました、今現在のかねふり地蔵尊を参拝頂くとわかりますが、町史にあるような賑わいは、想像もできません。しかしこうした時期がこちらには確かにあった、ということを知ればお参りに向かう姿勢も変わるのではありませんか?わたくしも石ほとけさまたちのお顔をじっくり見に行ってみることといたします。参考)手水鉢に奉納者が刻印されており、それを見ると奉納者の住居地がわかると、町史にあります。2022.3.20お彼岸の少々風の強い日、再度お参りさせていただきました。改めて感じたのは、ホントに農村のど真ん中にあるなあ、ということ。むかしは山の部分が多い場所でありましたのでしょう。集落と言えども、家が点在している、という感じだったんでしょうね。かつて周囲にあった樹々が整理されたようです。おとなりの寺務所が半壊していました。しかし石ほとけさまたちは、相変わらず。相変わらず、凛と立っている。無言の言でわれら此岸の者に、語りかけてくる。「しかと、生きておるか?」「自信は、ありませんが.....」そのやり取りに、お地蔵さまの、やわらかいみ手で前へ押し出されたような気がしました。ありがとうございます。