紀州出身の徳本上人、熱狂の念仏!
徳本行者塔の特徴
紀州出身の徳本上人が信仰を広めた地です。
木魚を激しく叩く念仏が独特な魅力を放っています。
全国に約千基存在する徳本名号碑をご覧いただけます。
徳本上人は、紀州出身の僧侶で、木魚を激しく叩きながら念仏を唱えるスタイルで知られ、将軍から庶民まで熱狂的な支持を得ました。文教の府・文京区周辺にも彼が訪れた記録や、彼を慕う人々が建立した名号碑が数多く残されています。
| 名前 |
徳本行者塔 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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【全国に約千基ある「徳本名号碑」。その本人が眠る場所です】旧街道や古い集落を歩いていると、ときどき独特の丸みを帯びた文字で刻まれた「南無阿弥陀仏」の石碑に出会います。私も各地で目にしてきましたが、それらの多くは江戸後期の念仏行者・徳本行者(1758〜1818)に由来する「徳本名号碑」です。その名号碑は近畿を中心に関東・甲信越など各地へ広がり、約千基ともいわれます。しかし、ここ一行院だけは意味が違います。全国へ散っていった「南無阿弥陀仏」を遺した徳本行者ご本人が、実際に眠っている場所だからです。【これは「記念碑」ではなく、本当の御墓】一行院境内に立つ巨大な五輪塔が、東京都指定旧跡「徳本行者墓」です。古い記録には、「全身を本院に葬り、塔を其上に樹つ」とあります。つまり、後世になって徳本を顕彰するために建てられた碑ではなく、徳本行者その人をこの地に葬り、その上に建立された墓塔です。徳本行者は文化11年(1814)、増上寺の典海大僧正に招かれて江戸へ下向しました。その教化は大名・武士、大奥女中、商人、庶民にまで広がり、多くの人が徳本行者に帰依したと伝わります。文化14年(1817)には徳本行者を迎えるため一行院の本堂・庫裏が整えられ、ここが最後の念仏道場となりました。そして翌文政元年(1818)10月6日、61歳で一行院にて往生。その身が、この場所に葬られました。【高さ約4.5m。なぜこれほど大きな墓なのか】五輪塔は一丈五尺、約4.5mに及ぶと伝えられます。古い記録では二重の石造玉垣に囲まれ、文政2年(1819)の一対の献燈もあり、塔には「徳本行者塔」と記されていました。実際に前に立つと、単なる僧侶の墓という印象ではありません。私はその大きさそのものから、徳本行者が没後どれほど深く敬慕されていたのかを感じます。さらに興味深いのが、この五輪塔を建立したと伝わる摂津住吉の吉田喜平次です。吉田家と徳本行者の縁は死後に始まったものではありません。喜平次の父・吉田道可は、徳本行者が紀州で厳しい修行をしていた頃から訪ねて十念を受け、その後、道可・喜平次父子が徳本行者を篤く支援しました。つまりこの大きな墓は、行政が後世に造った「偉人記念碑」ではなく、徳本行者を生前から知り、その念仏に帰依した人々の信仰が石になって残ったものなのです。【私はここで、全国の徳本名号碑の見え方が変わりました】私がこの御廟で最も心を動かされるのは、やはり各地に残る名号碑との関係です。遠く離れた土地に立つ徳本名号碑は、徳本行者の墓ではありません。徳本行者が人々に遺した、「南無阿弥陀仏」という六字名号が、その土地に石として根付いたものです。ところが、その名号を書き、称え、念仏に生涯を尽くしたご本人は、最後にここへ帰着しました。全国に散らばる無数の名号碑を「枝」とするなら、私にはこの御廟が、その根元のようにも感じられます。後世、山崎弁栄聖者が徳本行者を「法然上人以来」とまで高く評価し、その念仏三昧の深さを称えたと伝わります。徳本行者がどのような境地に達していたのかを私には測ることはできません。ただ、各地に残る膨大な名号碑と、この巨大な墓塔を前にすると、一人の念仏者がどれほど多くの人の心を動かしたのかは、十分に伝わってきます。大正14年(1925)には東京府の仮指定を受け、現在は東京都指定旧跡として保存されています。一行院を訪れるなら、私は本堂だけで帰らず、この御廟の前にも一度立っていただきたいと思います。そして、いつか別の土地で徳本独特の「南無阿弥陀仏」に出会った時、「あの文字を書いた人は、東京・千石のあの五輪塔の下に眠っている」と思い出す。私はそこまで含めて、この御廟を訪れる意味があるように思います。奉酬名蓮社號誉上人稱阿彌陀佛徳本大行者 廣大慈恩至心合掌十念🙏🏻