光澤寺で聖徳太子の歴史を感じる。
光澤寺の特徴
柳津城跡に位置する光澤寺の歴史的な魅力があります。
山門の前には遺構に関する説明板が設置されている。
立派な建物が印象的で、お寺としての風格を感じられます。
光澤寺(/≧◇≦\)
柳津城跡柳津城の遺構は何も残っていないが、光澤寺境内が跡地とされており山門の前に説明板が設置されています。【歴史】築城時期は文亀年間(1501~1504)頃といわれている。城主の竹腰摂津守は斎藤氏に仕えていたが、弘治2年(1556年)斎藤道三がその子義龍と戦った長良川の戦いで戦死した。その後叔父の成吉摂津守尚光(竹腰尚光)が城主となり斉藤氏に仕える。当時の木曽川の本流は現在の境川で、つまり柳津は尾張国であったが斎藤氏の勢力が及んでおり斎藤氏と織田氏の戦いの最前線だった。旧柳津村の地名には、一ヶ城、七ヶ城という地名が残っていたが、これは柳津城の出城や砦があった場所といわれている。#お城 #城 #城跡 #岐阜県 #岐阜市#柳津 #柳津城 #柳津城跡。
立派なお寺さんです👍
岐阜県岐阜市柳津町の光沢寺は、598年に聖徳太子が開創したと伝える、太子寺が起源といわれており、1235年に親鸞聖人が関東より帰京する際にこの寺に逗留され、浄土真宗になったと伝えられています。1606年に柳津城跡のこの地に移転しています。柳津城は、文亀年間(1501~1504年)に築城されたといわれていて、1556年の長良川の戦いがあり、斎藤道三と斎藤義龍の親子の戦いでした。その戦で、柳津城主・竹腰摂津守が戦死しています。1586年の大洪水で廃城となりました。名鉄柳津駅から徒歩で8分のところにあります。
| 名前 |
光澤寺 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
058-387-3462 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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境川の北側にある茜部の長森縣神社から、境川を越えて南側、その昔は尾張葉栗だった柳津の地へ。そこで聖徳太子にまつわる伝承地を辿る。光澤寺は、6世紀に聖徳太子が創建した太子寺。その鎮守として、境内に穴太部(あなほべ)神社を創建したと。つまり、穴太部天神を祀る式内社の尾張国葉栗郡の穴太部神社のことだ。以下、聖徳山光澤寺由緒の石碑より当寺は、聖徳山一城院川並光澤寺と称し、真宗大谷派に属している。寺伝によれば、聖徳太子の創建と伝えられる。推古天皇六年(五九八)聖徳太子二十五歳の時、第五の后(蘇我馬子の娘)が懐妊され、その安産祈願の為、当寺を建立された。その時生まれられたのが、山背大兄皇子である。太子建立の四十八の寺院のうち、第三十八番にあたる。その当時は、太子寺(たいしじ)と称した。その後、平安時代に天台宗の寺院となり、耀仁寺(ようにんじ)と称した。鎌倉時代、柳津源太有光(源頼親の孫)、柳津三郎光重が当地に住まいし、往持も務めていた。嘉禎元年(一二三五)四月、親鸞聖人が関東より京都へ向かわれる時、当寺に三日間逗留され、光重は御化導をうけ、弟子となり、浄土真宗に改宗した。寺号も光琳坊(こうりんぼう)と改めた。その時、当寺は、柳津地内、字一ケ城にあった。光重は、法名を信光といい、文永二年(一二六五)入寂。以来連綿と法灯を伝え、現在二十八世となる。天正二年(一五七四)正月、織田信長に堂宇を焼き払われる。慶長十一年(一六〇六)、現在地へ移転再建される。寛文三年(一六六三)、光琳坊を改め、光澤寺と称する。以下、柳津城趾の案内板より戦国時代には、木曽川の本流は今の境川あたりを流れ、要所には大小の城がありました。その当時、ここに柳津城があったといわれています。旧柳津村には一ケ城・七ケ城という字名があり、ここには柳津城の出城や砦があったと思われます。柳津城主は竹腰摂津守といわれていますが、一五五六年(弘治二年)長良川の合戦で戦死し、その後、叔父の成吉摂津守が城主になりました。成吉摂津守は斎藤義龍の武将さらには龍興の重臣として仕えていました。当時、尾張国であった柳津まで美濃の勢力が及んでいたようです。