墨俣川の戦い、古戦場の息吹。
源平墨俣川古戦場跡(源平合戦)の特徴
源平の戦いが繰り広げられた歴史的な場所です。
墨俣川の戦いに関する資料が整備されています。
平家物語とも深い関わりを持つ名所です。
約1年前東京からレンタカーで三重県津市の平家関連史跡回って帰り道15時頃訪問、駐車場は無く史跡も車が入れなくしてあるのですれ違い危険ですが真前に停めてぱっと撮影か車来たら移動が良いかも、と言うのは近くの民家傍に空地が有り停めて史跡を見ていたら怒り心頭な感じで2人車の持主は誰?と抗議されたので直ぐ移動しました、近くの源義円墓所は農道の角にスペース有り其処に路駐して直ぐ去りましたが帰り道見張られていた気も。で源平墨俣川古戦場と掛かれた石碑・義円公園石碑・源義円供養塔・源平墨俣川の合戦説明板・義円地蔵が有り、源義円墓所は少し離れた田園の中に有ります。説明板に拠ると1181年2月平清盛死去、平重衡総大将七千騎と源行家千騎と対陣し源頼朝は源義円を援軍に送るも合流せず先陣を争い呆気なく討死、其の後尾張源氏泉重光兄弟討死、行家子光家兄弟捕縛、溺死者六百九十余人、後は源義円の説明になってますがこの勝利で平家は一息付くも2年後1183年源義仲の攻撃で都落ち、此時源行家と泉重光(満)息子山田重忠は同盟者として上京、更に2年後1185年壇ノ浦で平家滅亡で幟に鎌倉殿の13人だけでなく承久の乱の舞台地と書かれているのは山田重忠が承久の乱に朝廷方として奮戦したのを尊王的に讃えているのでは、また他の武将は余り岐阜県の此地の武将としての地元色が薄いという意味で。
源平の戦いがあったことは知っていたが、ここに古戦場跡があるとは…しっかり手入れがされていて良かったです。
時系列的には富士川の戦いが終わって平清盛の死の直後、平重衡軍と源行家軍が墨俣川を挟んで激突。源氏軍は大敗して義経と同じ常盤御前から産まれた兄、源義円や尾張源氏の源義光が討たれた。鎌倉殿の13人の旗立てられてた。
墨俣川の戦い(すのまたがわのたたかい)は、治承5年(1181年)4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において源行家軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。治承・寿永の乱の一つに位置づけられる。この時、行家の軍に加わっていた源義円(頼朝の異母弟、源義経の同母兄)、源重光(泉重光、山田重満とも。尾張源氏)、源頼元、頼康(ともに大和源氏)といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男行頼が敵軍の捕虜となっている。行家は矢作川を突破された後に敗走した。平氏があくまで都を中心とした専守防衛体制を堅持したことにより、平氏の西国支配、源氏の東国支配、奥州藤原氏の東北支配という勢力分布が一層明確なものとなった。
平家物語にある源平古戦場のひとつです。知らなければ通り過ぎてしまうような小さな公園になっています。義円公園といって、公園内に源平墨俣古戦場の石碑があります。ちなみに義円とは源義経の同母兄であり、この戦で討死と伝えられております。公園内に義円公の供養塔もあります。ここから近くには豊臣秀吉ゆかりの墨俣一夜城もあります。
| 名前 |
源平墨俣川古戦場跡(源平合戦) |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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養和元年【1181】平清盛没後すぐ、墨俣川を挟んで平重衡を総大将とする7000余騎の平氏軍が西岸に、新宮行家・源義円ら3000余騎の源氏軍が東岸に陣を構え、源平一大合戦が始まろうとしていました。義円は行家に先を越されまいと1人馬で西岸へ一番乗りをしようとしましたが、平盛綱に討たれてしまいました。行家は遅れてなるかと夜討をかけましたが戦いに敗れ矢矧川まで退きました。義円公園内には義円地蔵が祀られ、里人の手により、毎年3月11日の義円の命日に供養が行われます。