出羽三山の供養塔、歴史が刻まれる。
石造出羽三山供養塔の特徴
花まつりの幕で特別な雰囲気を楽しめます。
出羽三山の供養塔が三基並んでいます。
江戸時代の巡礼の記録が刻まれた石塔です。
出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)の供養塔、三基が並んで建っています。安永六年(1777)と文化元年(1804)に造立されたもので、台座石側面には蓮沼村、前野村、小豆沢村の講員名などが彫られています。村で講を作り、出羽三山の参拝の願いが叶ったことを感謝して奉納されたのでしょう。台座石の正面に「講願成就」文字が認められます。板橋区有形民俗文化財。
2024年4月8日 訪問花まつりの幕で仕切られていました。
| 名前 |
石造出羽三山供養塔 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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三基の石塔は、江戸時代の板橋と、遠く山形の出羽三山とを結ぶ「石に刻まれた巡礼の記録」です。南蔵院を参拝する際、神仏習合や修験道、地域の歴史に関心のある方には、ぜひ見ていただきたい文化財です。しだれ桜や不動堂に目を奪われがちですが、山門を入って右手に並ぶ三基の供養塔も、この寺院の歴史を物語る重要な存在です。中央の出羽三山供養塔は安永6年(1777)、向かって右の月山供養塔と左の羽黒山供養塔は文化元年(1804)の造立です。右の塔には阿弥陀如来、中央の塔には大日如来、左の塔には聖観音菩薩の坐像が安置されており、平成21年度に板橋区登録有形民俗文化財となっています。特に重要なのは、これらが単に三つの山の名前を刻んだ記念碑ではないことです。台座には、当時の蓮沼村・前野村・小豆沢村の出羽三山講に加わった講員70名の姓名と、羽黒山から授与された「房号」が刻まれています。交通手段が限られ、山形まで赴くこと自体が大事業だった時代に、村々の人々が講を組織し、先達に導かれて出羽三山を登拝していたことを示す、極めて具体的な痕跡です。塔の正面には、三山供養や諸願成就だけでなく、「天下泰平」「国土安穏」「五穀成就」「村内安全」などの祈りが刻まれています。そこから見えてくるのは、自分一人の願いをかなえるためだけの信仰ではありません。国土の平穏、村の安全、農作物の実り、家族や共同体の繁栄までを神仏に祈る、広く公的な信仰の姿です。羽黒修験道では、羽黒山を現在、月山を過去、湯殿山を未来に見立て、三山を巡ることを、生きながら新たな生命へとよみがえる「生まれかわりの旅」と捉えてきました。神仏習合の時代には、羽黒山には聖観音、月山には阿弥陀如来、湯殿山には大日如来が本地仏として重ねられました。山の背後に仏がいるというよりも、仏の慈悲や救済の働きが、山そのものの姿を取って現れていると受け止められていたのでしょう。右の阿弥陀如来、左の聖観音菩薩、中央の大日如来が並ぶ姿を前にすると、南蔵院の境内に、さながら小さな出羽三山の霊場が形づくられているように感じられます。当時の講員たちは、山へ登り、自分だけが功徳を受け取って帰ってきたのではなかったはずです。登拝によって結ばれた神仏との縁を故郷へ持ち帰り、その功徳を家族や村人、田畑、そして後世の子孫へと還元しようとしたのでしょう。供養塔は、単なる登山記念碑ではありません。遠い霊山と板橋の村々を結び、登拝の功徳と祈りを土地にとどめ、後世へ伝えるための信仰の拠点だったのだと思います。仏像の頭部には後世の補修が見られますが、三基がまとまって残されている姿は実に立派です。最も古い塔は建立から約250年を経ており、それでもなお、江戸時代の人々の信仰と地域共同体の姿を雄弁に伝えています。江戸時代の蓮沼・前野・小豆沢の人々が、遠く山形の霊山へ自らの身体を運び、厳しい山路を歩き、神仏と向き合い、村と家族の未来を祈った足跡が、三基の石塔となって今も静かに残されています。