青梅の裏宿七兵衛地蔵。
七兵衛地蔵尊の特徴
江戸時代の義民裏宿七兵衛を祀る地蔵尊です。
青梅七福神巡りの貴重なスポットで、歴史を感じられます。
青梅図書館の裏手に位置しアクセスも良好です。
青梅図書館の裏手にありました。ひっそりとして、良い雰囲気でした。
七兵衛の祟りは強力だったらしく逸話が今も残っている。七兵衛公園という場所に、七兵衛の供養塔がたっているという。何かしら関係があるのだろうか。❸【参考 七兵衛地蔵尊 日本の首塚 1973年】七兵衛地蔵尊のなりたち 七兵衛の祟り青梅には七兵衛処刑後以来、その屋敷や田畑を入手したものが、相次いで不運な目にあっている。中には頓死したりぶらぶら病になったりして、祟り説がみだれとぶようになった。寺で供養しても効果がないようで鎮まる気配は全くなかった。それでとうとう誰もその畑に手を出すものがなくなり、明治時代には裏宿区の共有財産になっていた。祟りが再発したのは、この地に西多摩郡役所が建てられることになった大正5年ころからである。工事中に大工や瓦職人がけがをしたり、死亡したり不吉なことが相次いだため、しだいに「たたりだ」「七兵衛を祀ってやろう」という声がささやかれるようになった。西多摩郡役所初代所長は「迷信だ」と取り合わなかったが、急死してしまい、祟り説は本物になってしまった。そこでとうとう大正7年5月、小さな地蔵堂をたてて祀ってやった。という。_____中里介山氏の「大菩薩峠」に裏宿七兵衛は俊足の怪盗で出てくる。今まで空想の人と思われていたが、「谷合見聞録」により、実在した人物であることがわかった。ただ、云われているように、貧しいものに施しを与えた義賊ではないようである。❷【参考 谷合見聞録 多摩の歴史 1975年】元文4年(1739年)の項に「10月4日三木村で裏宿の七兵衛、小作の大藏(大藏 は異名にて本名_惣右衛門)、新町の三左衛門、福生の八左衛門、青梅魚売りの善右衛門、日向和田村の五兵衛が召し捕られた。」とある。青梅近郊の盗賊団が一網打尽に捕らえられ、七兵衛はその親分のようである。さらに「10月25日、七兵衛は牢屋で首を切られ、首は青梅へとどけられ、笹のかいと(青梅)で獄門にかけられた。七兵衛の女房は故郷の沢井村へおあづけになり、日向和田村の五兵衛と新町の三左衛門は、百叩きの刑でいのちがたすかったが、小作の惣右衛門は斬り捨てられ、福生の八左衛門は牢死した」とある。❶【参考 裏宿七兵衛 谷合見聞録 1974年】元文4年(1739年)10月4日 御代官_上坂安左衛門様_御手代_長谷川儀助殿、火方御奉行_別府孫右衛門様_御組_奥村藤九郎殿_御両人、村山三木村へ御越被成、裏宿・七兵衛、小作・大藏(大藏 は異名にて本名_惣右衛門)、新町・三左衛門壹人、福生・八左衛門壹人、青梅肴売・善右衛門子、日向和田村・五兵衛被召捕。富分縄付きに村預かりに被なり候。~省略。
「裏宿七兵衛」という実在の盗賊を祀った地蔵尊。一味を率いて盗賊稼業に精を出したが元文4年(1739年)に捕まり、打ち首獄門となったという。近くの宗建寺に墓があるようだ。で、この七兵衛、「俊足の義賊」としての伝承が残っていましてね、日中は農民として畑仕事をこなしつつ、夜になると甲斐や相模まで走って悪徳商家で盗みをはたらいて戻り、貧しい者の家の軒先にお金を置いて回って、昼には素知らぬ顔で畑仕事をしていたそうな。七兵衛の畑跡には役所が建設されましたが、その建設中には事故が相次いだそうで、またその後も祟りのような出来事が頻発した事から、昭和7年(1932年)にその敷地内に七兵衛地蔵堂が建立されました。健脚のご利益があるそうで、青梅マラソンの参加者がよく訪れるとか。
江戸時代の義民「裏宿七兵衛」を祀る地蔵尊です。「足が早くなる」と言う御利益も有り青梅と言えば有名な青梅マラソン🏃のランナー達も祈願に来るとか……裏の路地にひっそりと有りますがノボリの数を見ると結構な数の方がお参りに来ているのが分かります。
青梅に縁のある、数少ない所です。
2018年4月2日、青梅七福神巡り。途中で参拝した常保寺の御朱印を書いていただいている間残りに行ってみました。こちらの地蔵尊は、足が速くなったり、足腰が強くなる御利益があるそうです。私も、足腰の健康と怪我のないように手を合わせました。
| 名前 |
七兵衛地蔵尊 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
2025年5月3日㈯しちべえ じぞうそん。七兵衛地蔵尊大祭は6/1㈰にあるみたい。