日野町の蒲生氏郷公像、心安まる場所。
蒲生氏郷公像の特徴
金木犀の香りが漂う静かな公園で心が落ち着く場所です。
威風堂々とした蒲生氏郷公の立派な銅像が魅力的です。
戦国ファン必見の氏郷公ゆかりの地として訪れる価値があります。
蒲生氏郷のの生涯はわずか40年でした。辞世の句は有名で『限りあれば、吹かねど花は散るもを心みじかき春の山風』これは『人の命は桜と同様に限りがあるのに、心気ぜわしく花を散らす春の風のことよ』といった意味です。では、蒲生氏郷とは、どんな人物だったのか?人物像をまとめると。⦿文武両道戦場では、成功を挙げ、領地経営や家臣の統一にも長けていました。また、茶道にも造詣が深く文化人としても評価されています。⦿天下人に認められた器量人織田信長からはその才能を高く評価され、娘を娶らせ、婿養子としています。豊臣秀吉からは、その能力を恐れられていたとも言われています。⦿文化人としての側面千利休の高弟『利休七哲』に数えられ、茶道に精通していました。キリスト教にも関心を持ち、洗礼名『レオ』を持つ一面も持ち合わせていました。⦿若くしてして没した悲運の武将40歳の若さで生涯を終えましたが、その活動は、後世に語り継がれています。その他⦿会津若松城(鶴ヶ城)を築城したことでも知られています。⦿家臣の統制に厳格な面もあったとされています。
蒲生氏について知らなかったので勉強になりました!大河ドラマとかになると人気がでそう!
日野町といえばなんといっても蒲生氏郷です、その銅像。
かなり立派ですね。さすが麒麟児、蒲生氏郷公です。
道を車で走っていたら公園の所に金木犀の黄色い花が咲いていたので匂いをかぎに寄りました。とても良い匂いがしまさた。
蒲生氏郷公の銅像立派です。無料駐車場もあります。
真田戦記蒲生氏郷と日野滋賀県蒲生郡日野町上野田 ひばり野蒲生氏郷は1556年、蒲生賢秀の三男として日野城で生まれました。1568年、観音寺城の戦いで六角承禎が敗れると当時、六角氏重臣だった蒲生賢秀は鶴千代(氏郷)を人質に差し出して織田信長に臣従します。永禄12年(1569年)の南伊勢大河内城の戦いにて14歳で初陣を飾ります。元服して忠三郎賦秀とし信長の次女を娶って日野に帰国ました。その後、同年7月の姉川の戦い、元亀2年(1571年)の第一次伊勢長島攻め、元亀4年(1573年)4月の鯰江城攻め、天正元年8月の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の第二次伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正6年(1578年)からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱(比自山城の戦い)などに従軍して、武功を挙げ重ねています。本能寺の変後天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城へ走って戦支度をして光秀に対して対抗姿勢を示しました。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈でしたが、直前に山崎の戦いで敗死ます。同年、氏郷は家督を相続します。その後は羽柴秀吉に従います。1584年、、小牧・長久手の戦いの後、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封されます。天正16年(1588年)に松坂城を築城します。多くの日野商人が松阪に移住します。天正18年(1590)の小田原陣の後、秀吉は氏郷を奥州の押さえとして会津黒川92万石に封じました。文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死しました。享年40
静かな公園です、心落ち着かすのに良い公園です(^^)
⭐️国道307号線=通称「氏郷街道」「氏郷街道」と「日野商人街道」の交わる交差点が「松尾」🚙⭐️偶然、「松尾」交差点の赤信号で停車、右側見たら颯爽と甲冑を身に纏った武将の銅像を発見、看板見たら『蒲生氏郷公銅像』と、寄り道しました😅ナゼこんな場所に、何か蒲生氏郷因縁の地かと、この場所自体は普通に「ひばり野公園」でした、日野町全体が蒲生家因縁の地ですね✨出来れば『日野城址』入口、ダム湖の畔に建てて欲しい「蒲生氏郷像」が水面に映える‼️・車…公園西側に4~5台の駐車場🚗
| 名前 |
蒲生氏郷公像 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0748-52-6577 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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駐車場も有るので、氏郷ファンは行ってみては、ワタクシは九戸城、会津若松城、松阪城と追っかけて日野城の後にここに来ました。