関ヶ原の裏切りと戦国の義。
平塚為広碑の特徴
大谷吉継の配下、平塚為広の義に生きた碑です。
戦国武将の歴史を感じる場所として訪れる価値があります。
廃道沿いに位置するため、アクセスは工夫が必要です。
漢の中の漢2024年5月上旬、レンタサイクルでの関ヶ原探訪の際に寄りました。石碑と説明板があります。説明板には—————————————————————-垂井城主(不破郡垂井町)の平塚為広は、盟友・大谷義継の配下として北陸方面を転戦した後、戸田勝成*1とともに約6百の兵で藤川台に布陣した。病を得ていた吉継に代わり前線の指揮を託されたといい、藤堂高虎・京極高知らを相手に善戦した。正午頃、小早川秀秋が寝返ると、吉継とともにこれを追い返すが、脇坂安治らも寝返ったため支えきれず、吉継に辞世の句*2を送って討死した。碑は、昭和15(1940)年に子孫が建立したもの。*1重成・重政とも*2「名のために捨つる命は惜しからじ終に留まらぬ浮世と思えば」————————————————————-とあり大谷義継や平塚為広は「漢の中の漢」を感じます。
大谷吉継の配下の一人で 戸田勝茂と共にこの辺りで奮戦する。予期しない事、裏切りそして裏切り で戦局悪化、最後と決め 敵の首級と 辞世の句を 大谷吉継へ届けて、戸田勝茂と共に虚しく討死する。どんなに無念で有った事か😭😭😭
大谷吉継とともに石田三成に翻意を促すが聞き入れられずにそれでも結果三成に与し戦場の露と消えてしまうといういかにもな話が現代に伝わっておりますが…ほんとに石田三成に与したら敗れると思ってたんかなー?ほんとに敗れるってわかってて与する戦国大名って存在するんやろか義に生きるなんて言うけど多くの家臣や領民に対する義はなかったん?戦に敗れた戦国大名の家臣や領民がどんな目に遭うかは嫌ってほど見てきてるやろにな個人的にはそう思います。
大谷吉継同様、武士の義に生きた平塚為広の碑です。何度も吉継軍と小早川秀秋の軍勢を押し返しますが脇坂安治、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠の寝返りにより他勢に無勢、戦死しました。戦国ロード沿いにあり吉継の墓からも近いです。
宇喜多秀家陣跡から舗装された道路を歩くとカーブミラーの近くに平塚為広の碑が有ります。Wiki等見ると豊臣秀吉の馬廻として仕え死後8000石から1万2千石の所領を与えられ美濃埀井城主として挙兵しようとした石田三成を大谷吉継と思い止まらせようと説得するも失敗(この話は2次資料にしか出てこないので真偽不明)最期は直属360人の軍勢で大谷吉継勢600人と小早川秀秋の1万5千の部隊を再三押し戻すも新たな裏切りに合い討死(之も最近では合戦初頭から裏切り行為が有り、劇的ではなかったとか)昭和15年(1940)子孫の平塚定二郎がこの碑を建て、女性活動家平塚らいてうも関わっていたとか。柿の実が彼方此方に落ちていたのでお供えしました、まあそういった教養より現実の現場でないと〇川とか…
僅か300人でローマ軍と戦ったスパルタ軍の戦国版を想い起こす。儀に仕え、信念の為に生きた武将。
駐車場がないので路駐になります。車に気を付けて見学しましょう‼️
大谷隊に属し、わずか360人で数万の小石川軍を数度退けたが、数度の裏切りに会い討死されたそう。無念の一言だろうな。
戦国武将が好きな方は是非 👍
| 名前 |
平塚為広碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
https://www.sekigahara1600.com/spot/hiratsukatamehironohi.html |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
因幡守、平塚為広の子孫に平塚らいてうがいます。らいてうは、この碑の建立に関わっているそうです。