長篠の戦いを感じる馬防柵。
設楽原決戦場の特徴
設楽原決戦場では復元された馬防柵があり、当時の戦いを想像できます。
長篠合戦の舞台であり、武田軍と織田・徳川連合軍の歴史が感じられます。
広々とした草原から田んぼを望む風景が、合戦の実情を感じさせます。
天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いで、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼の騎馬隊を迎え撃つために築いた防御陣地の跡です。織田・徳川連合軍は、連吾川沿いの南北約2〜4キロメートルにわたって木製の柵を三重に設置しました。これは武田軍の強力な騎馬突撃を阻止し、足止めしたところを大量の鉄砲で狙い撃ちにするための戦術的な設備でした。現在、連吾川沿いの決戦地跡には、当時の工法を忠実に再現した木製の馬防柵が復元されており、実際に柵の間から敵陣を見据えるような視界を体感できます。戦国時代の合戦のあり方を大きく変えた歴史的転換点として、現在も大切に保存されている遺構です。
織田、徳川連合軍と武田勝頼が戦った場所です。現在は馬防柵が一部分再現されており戦場を偲ぶ事が出来ます。当時はこの馬防柵が南北2キロに渡って建っており、更に連吾川が天然の堀の役割を果たしていたので、連合軍は城内から武田軍に鉄砲攻撃をしていた感じじゃないんでしょうか?今では三段撃ちは否定されてるようですけど、連合軍が用意した鉄砲は3000以上とされており三段撃ちをしなくても、常に武田軍に鉄砲が発射されてる状況じゃなかったのでは?死者数も武田軍1万、連合軍は数千人程度とされており、武田軍はほぼ鉄砲に撃たれ死んだのでしょうか?今は、馬防柵前の湿地帯に、大きなお地蔵さんが立っており、ここで亡くなった戦死者を弔っておられます。お地蔵さんにもお参りしてきました。地蔵菩薩御真言オンカカカビサンマエソワカ。
武田勝頼と織田信長、徳川家康の決戦の地。武田軍の騎馬隊を止めるべく馬防柵を作り、織田徳川軍の鉄砲隊により大勝利に導いた馬謖です。今はとてものどかな所です。周辺にある家康物見塚、武田勝頼軍本陣などを回るのもいいかもしれません。歴史の分岐点となった場所と思うと感慨深いです。
織田、徳川連合軍の鉄砲隊が武田の騎馬隊を破った長篠の戦い決戦地。大河ドラマ『どうする家康』
一般的に言うと長篠の合戦があったとされている場所。現在では馬防柵が復元?されていますが、ぶっちゃけ田んぼの横に木組みの柵が立っているだけとも言えます。昔の合戦に想いを馳せながら見て回るのは楽しいです。ここをみる前に近くにある記念館に行った方がいいです。こちらにはちゃんとした駐車場はありません。
実際に歩いてみると地形がよく理解できます。間に河と湿地を挟んで双方低台地に陣取り、織田徳川方は野戦築城のような馬防柵を構築しておりました。長篠城の付城を落とされたことで安易に退くことも難しかったのかもしれませんが兵力差と地形、敵の準備を考慮すればやはり退くべきだったのかもしれません。父信玄が砥石崩れなどで家中の重鎮を失っていた事で逆に権力を集中させたという見方を取れば、勝頼側近衆の台頭と老臣功臣の対立に決着をつける必要があり、勝てば当主としての発言力が高まり負けても反対勢力を「物理的に」一掃できる機会と捉えたとするのはさすがに邪推でしょうか。当時の河の水量がどれくらいだったのかも気になりました。
馬防柵が再現してあるおかげで、当時の戦いの様子を想像することができました。蓮吾川に沿って向かい合い、騎馬で突撃する武田軍は湿地のぬかるみでどれだけ突撃の威力を出せたでしょうか。織田・徳川連合軍は馬防柵を作るための木材を愛知県から足軽に運ばせたようです。どのような戦いになるかを考え、十分な用意とそのための労力を惜しむことなく実行したことが勝利に繋がったのでしょう。この場に足を運ぶと、土地の広がりから戦いの規模感を身体で感じることができ、来て良かったと思いました。駐車場は設楽歴史資料館に訪問して、坂の下の第3駐車場を利用すると便利です。
教科書に出てくるあそこです。現地で見てみるとよくわかりますが、川で馬の勢いを抑えたところを丁度打ちかける射程に馬防柵があり、単純に鉄砲だけで押さえ込んだわけでは無いことがわかります。それでも第3の柵まで突っ込んだ武田勢もいたのだから、そんなに楽勝というわけではなかったのではないかと思われました。
馬防柵が立っている場所に行きましたが、お手洗いはありませんでした。織田信長・徳川家康連合軍が、武田勝頼と戦った場所です。決戦場には、馬防柵が作られており実際に柵を間近で見ることができます。柵越しに、武田軍が攻めてくる情景などを思うと教科書で見た時とは違う感覚になりました。この馬防柵は、武田の騎馬軍団に対抗するために信長が考えだした作戦とされています。連合軍は、柵越しに攻めてくる武田の騎馬隊を鉄砲で迎え撃ったのです。馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ運ばせたと言われています。
| 名前 |
設楽原決戦場 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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設楽原決戦場で起きた設楽原の戦いのドラマや本では絶対に描かれない史実とは?ドラマや書籍で描かれる『鉄砲の三段撃ち』は後世の創作で、実際は一斉射撃で、圧倒的な物量(千挺以上)の同時発砲で武田軍を圧倒したのが史実です。また、設楽原の馬防柵は騎馬隊を止めるだけでなく、『連合軍は臆病で弱い』と武田軍に怯弱させて突撃を誘い込む罠でもあります。設楽原の戦いの史実⦿騎馬隊だけでなく『徒歩(かつ)武者』の突撃だった戦国最強と名高い『武田の騎馬軍団』ですが、実際は馬に乗っていたのは、武将や一部の騎兵のみです。突撃してきた兵のほとんどは徒歩の兵の武者であり、泥田や急斜面に足をとられながら柵に向かって突っ込んていきました。⦿『臆病者を装う』ための馬防柵総延長2Kmに及んだ三重の馬防柵はただ守るためだけでなく『信長・家康は武田騎馬隊を恐れてビビっている』と武田軍に見せつけ、怒涛の突撃を誘発するための『挑発』の役割を担っていました。⦿一斉に撃ちまくる『弾幕』による殲滅(せんめつ)映画や小説での定番の『一列ずつ撃つ三段撃ち』ではなく、実際には圧倒的な数の鉄砲を同時に撃ちかけ、絶え間ない弾幕(雨あられのような銃弾)で武田軍の前を文字通り蜂の巣にして壊滅させました。⦿実際の勝因は『奇襲』と『背後からの強襲』設楽原での正面衝突(鉄砲)ばかりが強調されがちですが、実際の勝負を決めたのは、、信長が送り込んだ別働隊による夜間の『鳶ヶ巣山砦』の奇襲です。これにより武田軍は背後を突かれ総崩れとなりました。