馬防柵で感じる合戦の歴史。
設楽原決戦場の特徴
設楽原決戦場では復元された馬防柵があり、当時の戦いを想像できます。
長篠合戦の舞台であり、武田軍と織田・徳川連合軍の歴史が感じられます。
広々とした草原から田んぼを望む風景が、合戦の実情を感じさせます。
馬防柵が再現してあるおかげで、当時の戦いの様子を想像することができました。蓮吾川に沿って向かい合い、騎馬で突撃する武田軍は湿地のぬかるみでどれだけ突撃の威力を出せたでしょうか。織田・徳川連合軍は馬防柵を作るための木材を愛知県から足軽に運ばせたようです。どのような戦いになるかを考え、十分な用意とそのための労力を惜しむことなく実行したことが勝利に繋がったのでしょう。この場に足を運ぶと、土地の広がりから戦いの規模感を身体で感じることができ、来て良かったと思いました。駐車場は設楽歴史資料館に訪問して、坂の下の第3駐車場を利用すると便利です。
教科書に出てくるあそこです。現地で見てみるとよくわかりますが、川で馬の勢いを抑えたところを丁度打ちかける射程に馬防柵があり、単純に鉄砲だけで押さえ込んだわけでは無いことがわかります。それでも第3の柵まで突っ込んだ武田勢もいたのだから、そんなに楽勝というわけではなかったのではないかと思われました。
馬防柵が立っている場所に行きましたが、お手洗いはありませんでした。織田信長・徳川家康連合軍が、武田勝頼と戦った場所です。決戦場には、馬防柵が作られており実際に柵を間近で見ることができます。柵越しに、武田軍が攻めてくる情景などを思うと教科書で見た時とは違う感覚になりました。この馬防柵は、武田の騎馬軍団に対抗するために信長が考えだした作戦とされています。連合軍は、柵越しに攻めてくる武田の騎馬隊を鉄砲で迎え撃ったのです。馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ運ばせたと言われています。
何万もの兵士が戦闘していたと思えないくらいの広さ。武田方と徳川方が対峙する間にある平地で正に日本史に影響を与えた合戦地再現された馬防柵のおかげで当時をイメージ出来る。
2023年12月26日に見学しました。天正3年1575年に武田勝頼の騎馬軍団を織田・徳川の連合軍が、火縄銃で撃破した場所です。馬防柵が、約2キロに渡って築かれました。足軽の集団を有効に使った長篠の戦いは、戦国時代を大きく変えました。敵の首をどれだけ勝ち取ったのか、論功行賞の方法も変化しました。
信長主体の合戦場。馬防柵とその手前50メートルほどに流れる小川。小川を渡った武田勝頼軍の騎馬隊を順繰りに織田信長軍が撃って行った戦場です。よくぞこの場所をチョイスしたもんだと感心します。チョイスした時点で、武田軍はここで戦ってはいけなかったのでしょうね。凄い戦略です。
どうする家康で長篠の戦いがやっていたので、馬防柵を見てきました。家康と織田の馬防柵で少し違うようでした、田んぼの前に作ってあったのでイメージとは少し違いました。設楽原歴史資料館の近くにあり駐車場がないのであぜ道に停めました😉
2023年6月4日に行って来ました。行き方Googleナビで設楽原決戦場へセットすると行けます。駐車場専用駐車場無しですが奥まで行くと数台停める事が出来るスペース有り。感想木の柵など立って居てなかなか良い雰囲気を出していますよ。
復元された馬防柵がある設楽原の決戦場です当時は湿地帯だったそうで現在はそれを生かして田んぼもあります田んぼ側(武田側)から見る馬防柵は結構見応えがありますよ♪織田・徳川連合軍と武田軍の戦いでたくさんの鉄砲を使って勝利したと言われている教科書にも載っている合戦武田の騎馬隊はこの馬防柵と鉄砲で手も足も出なかったのか……と当時の情景を見た事が無いのに感じる事が出来る…そんな場所です近くには歴史資料館などもありますのでセットで見てみるのもいいと思います。
名前 |
設楽原決戦場 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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実際に歩いてみると地形がよく理解できます。間に河と湿地を挟んで双方低台地に陣取り、織田徳川方は野戦築城のような馬防柵を構築しておりました。長篠城の付城を落とされたことで安易に退くことも難しかったのかもしれませんが兵力差と地形、敵の準備を考慮すればやはり退くべきだったのかもしれません。父信玄が砥石崩れなどで家中の重鎮を失っていた事で逆に権力を集中させたという見方を取れば、勝頼側近衆の台頭と老臣功臣の対立に決着をつける必要があり、勝てば当主としての発言力が高まり負けても反対勢力を「物理的に」一掃できる機会と捉えたとするのはさすがに邪推でしょうか。当時の河の水量がどれくらいだったのかも気になりました。