新井白石の智恵袋跡地、ひっそりと。
新井白石終えんの地の特徴
新宿御苑の近く、千駄ヶ谷門近辺に位置する歴史的スポットです。
儒学者新井白石の晩年を過ごした住まいの跡地として知られています。
説明板だけのシンプルな展示が特徴で、静かな環境で歴史を感じられます。
案内がひっそりと立っている以外は特に何もありませんでした。当時はこのあたりは麦畑だったそうです。
渋谷区教育委員会が設置した説明板があるだけです。新井白石は六代将軍家宣と七代将軍家継には重用されましたが、八代将軍吉宗時代になると幕府での地位を失い江戸城中の御用部屋や小川町にあった賜邸を召し上げられ、当時麦畑だったこの地に蟄居し、享保六年(1721)から亡くなる享保十年(1725)まで、失意の日々を送った場所であるとのことです(説明板記述)。高名な儒学者であった新井白石のことは承知していましたが、晩年を失意のうちに過ごしたことは知りませんでした。この場所に佇みながら、約300年前の荒井白石の波乱万丈の人生を想像しました。
裏通りにあります。
新宿御苑の塀が続く所、千駄ヶ谷門の近くにある。今はこの案内板のみ残るのみ。
説明板のみです。
説明の看板のみです。
徳川幕府第六代将軍家宣、第七代将軍家継に儒官として仕え、「御意見番、知恵袋」として様々な政策の立案・実行に寄与した儒学者新井白石が晩年を過ごした住まいの跡です。儒者としての功績が著名な人物ですが、徳川幕藩体制も中期に入った時代に、幕府の長であり、実務における実質的な国政の責任者である征夷大将軍の執務を身近で補佐した新井白石の功績は極めて多大なものがありました。その一つに閑院宮家の設立が挙げられるでしょう。皇室には男系継承を守る為に、伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家という三つの世襲親王家が存在し、各宮家の代々の当主は、時の天皇の猶子となり、その上で親王宣下を受けるという特別な地位を保証される事で、皇統を護る藩屏として機能していました。江戸時代中盤に入り、新井白石の建白により、より一層皇位継承を確実なものとする為に、新たに閑院宮家が設立され、合計4つの世襲親王家が「四親王家」として、さながら「四天王」の如く「本家」たる天皇家を支える体制が確立しました。新井白石の建白は後に実を結び、江戸時代後半に閑院宮家は光格天皇を輩出する事になりました。現在の皇室の男性は、全員が光格天皇の男系子孫となります。皇位継承資格を持つ主な男性皇族を起点に世代別に歴史を辿りますと、以下の通りとなります。悠仁親王殿下(昭和天皇の曾孫) u003e 皇太子殿下及び秋篠宮殿下(昭和天皇の孫) u003e 今上陛下(昭和天皇の子) u003e 昭和天皇(光格天皇の来孫) u003e 大正天皇(光格天皇の玄孫) u003e 明治天皇(光格天皇の曾孫) u003e孝明天皇(光格天皇の孫) u003e 仁孝天皇(光格天皇の子) u003e 光格天皇新宿御苑の敷地に隣接した住宅地に渋谷区教育委員会による小さな立て看板があるのみですが、区と都が協同してもう少し詳細事項を列挙したブースみたなものを作っても良いかと思います。江戸時代から続く渋谷区・新宿区界隈の歴史に思いを馳せてみては如何でしょうか。
説明板が立っているのみです。白石が享保二年(1717年)に幕府からこの土地を与えられ、同六年に移り住んだ頃は、周りはすべて麦畑だったそうです。
案内表示板だけしかありません。
| 名前 |
新井白石終えんの地 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.shibuya.tokyo.jp/bunka/spot/meisho/bunkajin.html |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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新井白石は木下順庵の門弟として朱子学を専門とし、学者として家宣に講義をしていました。家宣が6代目将軍になるとその実力を買われ、儒教道理に基づくNo2の政治家として起用されました。綱吉時代に貨幣改鋳(質の低い貨幣を流通)をして物価を高騰させた荻原重秀を追放し、貨幣の品質を元に戻すために正徳金銀を流通させたり、長崎貿易の縮小、朝鮮通信使の簡素化など財政の立て直しに寄与しました。正徳の政治も一生続くことはなく、家宣と家継を超えて吉宗の時代になると新井白石に対する風当たりが強くなり、この地で隠居しました。隠居後は自伝記の折たく柴の記、世界地理の采覧異言、シドッチから聞いた話をまとめた西洋紀聞といった書籍を残し、亡くなりました。