山内一豊公陣跡、歴史を感じる松並木。
山内一豊陣跡の特徴
中山道の旧道沿いに位置し、歴史を感じる陣跡です。
一豊が戦略を練った場所で、興味深い看板があります。
松並木が続く景色が美しく、深い歴史を物語ります。
主戦場から離れているも2024年5月上旬、レンタサイクルによる関ヶ原探訪際に寄りました。現地には松の木のそばに駒札とのぼりがある程度この場所は主戦場から離れており、かつ徳川家康の陣地よりも奥で「何故ここに陣地?」と思いましたが、駒札を読んだら納得しました。駒札には——————————————————-線田信長の家臣で豊臣秀吉にも仕えた山内一重は、会津征伐の途上で開かれた小山評定の折、徳川家康の西上に対し、自らの居城である遠江掛川城(静岡県掛川市)の供出を発言し、家康に高く評価されたといわれている。関ヶ原の戦いでは約2千の兵を率いて、ここ野上付近に布陣し、南宮山(垂井町)の毛利秀元ら西軍諸隊を抑える重要な役割を果たした。午前11時頃、家康が陣場野に本陣を移すと、一重も主戦場に陣を移し戦った。合戦後は小山評定での功により大幅に加増され、土佐20万2千石に転封された。————————————————————とあり確かに南宮山はさらに東にあり、西軍の陣地がありました。もし南宮山の部隊が攻め込んでいたら江戸時代は無かったかもしれないと考えてしまいました。
旧中山道沿いにあり、大きな松と山内家の三つ葉柏の軍旗が目印です。一豊は徳川家康に従い、会津の上杉景勝討伐の軍に参加し、関ケ原の戦いに際しては居城の掛川城を明け渡して出陣しました。大垣城の戦に加わったのち関ヶ原方面に移動、約2000人の兵士を率いてこの地に陣を置きました。この場所に陣を置いた理由は、南宮山の敵に備えるためでした。その後、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、家康の命令を受け、山内隊は有馬・蜂須賀の隊と共に前進して戦いました。
中山道の旧道沿いにある関ヶ原合戦の陣跡。幟旗と解説看板が立っているのみ。
一豊は、東側にいる西軍の一部(毛利ら)を抑えるため、中山道に陣を取った。ちなみに、一豊の別名は、伊右衛門、猪右衛門、対馬守。一豊の父は、岩倉織田氏の重臣山内盛豊。
一豊は、東側にいる西軍の一部(毛利ら)を抑えるため、中山道に陣を取った。ちなみに、一豊の別名は、伊右衛門、猪右衛門、対馬守。一豊の父は、岩倉織田氏の重臣山内盛豊。
旧中山道沿いにあります。正直言うと他の陣跡より扱いが……
中山道『関ケ原宿』より東側に位置し、松並木の中に陣跡があります。南宮山に陣取った西軍大将【毛利輝元(もうり てるもと)】を含めた軍勢【安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)】【長束正家(ながつか まさいえ)】【長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)】の押さえを担当した。しかし東軍に内応していた毛利軍先鋒の【吉川広家(きっかわ ひろいえ)】が南宮山の麓で毛利軍を出陣妨害していた為(宰相殿の空弁当)、戦闘が起こる事は無かった。同・東軍【池田輝政(いけだ てるまさ)】を残して主戦場へと移動した。直ぐ近く、21号線側『桃配山』に【徳川家康最初陣跡】があるのでセットで行くのも良いと思います。南宮山周辺の西軍・東軍の陣も攻略すると、話が濃くなってより面白くなると思います。
山内一豊陣跡です、ここから京方面は素敵な松並木が続きますよ。
跡地で看板が設置されています。注意して置かないと通り過ぎてしまうかもしれません!
| 名前 |
山内一豊陣跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0584-43-1600 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
関ヶ原の戦いの際に東軍についた山内一豊公の陣跡。最初は東軍の先鋒隊として福島正則等と共に岐阜城を落としますが、本戦の際には徳川家康の本陣の後方の守りを固め、南宮山の毛利氏を牽制するために、ここに陣を置いています。旧中山道沿いにあります。他の陣跡ほど目立ったものではないため、見落とすかもしれません。