激闘の歴史、姉川の戦場へ。
姉川古戦場跡の特徴
1570年の姉川の戦いが繰り広げられた歴史的な場所です。
現地には元亀庚午古戦場の碑があり、合戦の証が残っています。
浅井軍と織田・徳川連合軍が激闘を繰り広げた場所で感慨深いです。
織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍が激突した姉川古戦場跡です。現在、特に何かが残っている訳ではないのですがその当時の激戦を偲んで手を合わせました。
姉川古戦場に久しぶりに来ました。前に1回来た事があります。姉川の北側に石碑があるけどこの場所は追撃戦をやってた場所になるはずです。織田軍の本陣は姉川の南側にあるので劇戦地はそっちですね。ここから一応小谷城跡は見えました(8km程北にある)この姉川で山内一豊が溺れそうになったとか大河ドラマでやってたけどそんなに姉川って水深あるか?って感想ですね。
滋賀県長浜市にある1570年「元亀元年」に起こった姉川を挟んで信長、家康連合軍「29000名」と浅井、朝倉連合軍「18000名」の戦いがあった場所です。そもそものこの戦いまでの経過は、織田信長に朝倉義景を討つように求めたのは、足利義昭である。義昭は、信長の助けを得て上洛し、室町幕府の15代将軍になったが、そうなる前は朝倉義景に足利家の再興を何度も命じていた。しかし、義景はまったく応じず、いくら上洛を促しても無視し続けたので、義昭は立腹し、「そのような不臣のふるまいならば、誅伐するしかない」と信長に朝倉征伐を要請したのである。信長はその時徳川家康に応援を依頼したのです。朝倉攻めに向かった1570年4月に福井県敦賀市にある金ヶ崎にさしかかると、同盟者の浅井家が裏切り、朝倉家についたのです。信長は、朝倉攻めの背後から浅井家が攻めてきたので、信長は、琵琶湖の湖西路「朽木」を通り京都まで退却しました。朽木には、信長が隠れたと伝わる洞窟があります。その後岐阜城🏯に、戻り直ぐに同6月に浅井攻めにとりかかっています。信長はまず浅井家の支城の横山城🏯を攻めて、横山城のある山の端の龍が鼻に浅井攻めの拠点とし、陣を構えます。東西の姉川を境に、小谷城のある小谷山の東側の岩崎山206メートルには、浅井長政が「浅井長政の本陣跡あり」があり、峰続きの北側の大依山「おおよりやま」360メートルには、朝倉景建「朝倉景建の本陣跡あり」が陣をはります。大依山、岩崎山ともに、この辺りは前方後円墳の地に陣を作っている特徴のある場所、その後戦いになり姉川沿岸におり、野村地区には、浅井軍、三田村地区には、朝倉軍が陣取ります。一方南側には、徳川家康は131メートルの岡山「のちに勝山」に、織田信長は陣杭の柳、横山の龍が鼻に陣を作っています。姉川を境に両軍が戦いました。浅井文化スポーツ公園のなかに、岩崎山登山口があります。後は稜線をいき大依山に入り、木尾登山口におりれます。信長、家康軍が勝利をおさめた戦いになっています。大依山の中腹には、姉川合戦の4日前に朝倉と浅井の両軍が、このまま小谷城🏯に引き上げるか、合戦に入るかの軍議をしたとされる場所があります。大依山から見える前にある七尾山691メートルに、姉川の戦いのときに、住民がこの山に逃げ戦況を見守ったとされています。また小谷山の右側にある山田山には、信長軍が入り朝倉軍が入れないように引き留めた場所になります。時代が1573年の小谷城🏯総攻撃のとき、宮部地区「宮部継潤」が治めていた横山から虎御前山までの5.5キロメートル道が狭く、ぬかるんでいたので、道を6.5メートルにし、さらに3メートルの土塁を築き、横には水路を作ったといわれています。現在の軍道横を流れている水路が当時の名残りと考える人もいます。岩崎山登山口までのアクセスは、公共交通JR北陸本線「長浜駅」下車 バス20分[自動車]長浜ICまたは小谷城スマートICから12分。
元亀元年(1570年)6月28日浅井長政·朝倉景健の連合軍と織田信長·徳川家康の連合軍がここ姉川を挟み戦っている。午前5時から始まり午後2時には終えたといわれている。当初は朝倉側が優勢であったが、側面からの攻撃で次第に敗退していった。また、一方浅井側も当初、優勢であったがこちらも側面攻撃や家康の加勢のためにこちらも敗退していったという!
現地には簡単な説明文の看板があるくらいで、あまり期待して来ない方がいい。しっかりとした駐車場はなく、看板の前に2~3台ほど停めることができるくらいだ。また、姉川に掛かる野村橋は老朽化のため危険との理由で、車両通行止めになっている。歩いて渡ることは可能だが、特に何もない。川を眺めながら、当時の光景を思い浮かべるくらいならできる。
滋賀県長浜市 姉川古戦場姉川の合戦1570年姉川付近一帯で行われた合戦です浅井長政軍8000 vs 織田信長軍23000?朝倉義景軍10000 vs 徳川家康軍5000~6000午前5時(6時)に始まり午後2時には織田、徳川方の勝利となりましたが戦死者が1100人とも2500人とも言われていて、川が真っ赤に染まったそうです。
この姉川で、両軍合わせて2
2022年9月10日行ってきました。行き方Googleナビで姉川古戦場にセットすると行けます。但し、近くに有る橋は老朽化の為通行止めです。駐車場専用駐車場有りです。歴史背景織田、徳川連合軍VS浅井、朝倉連合軍の戦いですかね。
⭐️姉川古戦場u003d「姉川の戦い/織田・徳川連合軍右翼の戦場」織田勢/兵20000(姉川の南着陣)vs浅井勢/兵6000(姉川の北着陣/野村地区)が激突した場所⚔️兵数少ない浅井勢が先鋒/磯野員昌はじめ織田勢に突撃奮闘、織田勢の陣を切り崩し織田本陣に肉薄窮地に❗️左翼で徳川勢が朝倉勢を追い詰め敗走させ、形勢逆転、織田勢も横山城包囲網から美濃三人衆が加わり浅井勢堪え切れず小谷城に敗走し決着😣⭐️ここに来たかったんです‼️古戦場に姉川が静かに流れ、東に伊吹山、周辺の田園風景、ここで1570年(元亀元年)に兵40000が激突したとは、織田信長「天下布武」への大きな一歩🐎
名前 |
姉川古戦場跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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織田徳川の連合軍と浅井朝倉の連合軍の合戦の地。現在は工事中で橋の通行ができません。