信長の隠れ岩、真冬の冒険!
信長の隠れ岩の特徴
信長が逃れた場所として知られる、深い歴史を感じる岩のスポットです。
朽木三ツ石の大きな岩壁が印象的で、探検気分を味わえる場所となっています。
道がわかりにくいながらも、自然を探しながら楽しめる遊歩道が魅力的です。
もう4、5回は通っていた道ですが、気づかないところですね。歴史に少しでも興味のある方なら是非、立ち寄りたくなると思います。ただ、Googleマップでは三叉路の南側に表示がありますが、実際は三叉路の北側に登り口と看板はありました。
真夏は遊歩道が草🌿深かったり😅
パッと行くと、通過するぐらい、よく見ないとわからないけど、パワースポットだよ🎵行ってみィ〰️
1月の真冬に行きました。雪が残っており、雨も降っていたので、隠れ岩まで行くのは大変でした。雨が降っているととても滑りやすく危険です。ただ、熊は冬眠しているので、その点は安心して登れました。隠れ岩の案内板の右側から、急斜面を登って行きます(木階段は腐ってますが残っています)。大変でしたが、登った甲斐はあります。2023年2月にも登ってきました。雪が残っており滑りやすく危険でした。が、やはり草茫々の夏よりはマシですね。
冬場でないと道がわかりずらい。こんな狭いところに隠れたかー。感動😆
朽木三ツ石 信長 の隠れ岩 追われる身、岩窟にひそむ。戦国武将 織田信長は元亀元年(1570) 4月、 越前の朝倉義景を討伐するために敦賀へ侵攻していましたが、 妹婿であった浅井長政が裏切ったとの情報を得て急きょ撤退を決意、 同月 30日に京都へ引き返します。 その退路として通ったのが今津町保坂から大津市葛川へ抜ける裏 ルート 「朽木越え」 でした。信長が来ることを知った当地の領主・朽木元綱は、 甲冑姿で出迎えようとしました。 この武装姿に驚いた信長は、同行の松永久秀と森三左衛門 (可成) に元綱の真意を確かめに行かせます。 そして元綱に敵意がないことを確認できるまで、ここ三ツ石の岩窟に身をひそめて待機したと伝 えられています。平服に着替えた元綱は、信長を下市場の圓満堂でもてなした後、 朽木城に宿泊させ、 翌日京都 までの警護役も務めました。 (圓満堂跡はここから南へ約1キロの下市場の集落内にあります。)~朽木・群・ひとネットワーク 朽木地域まちづくり委員会~
まさかの所の岩間に山道案内がないからわからないけど、探しながらも楽しっ下を見たら、びっくり高さ( °_° )
1月の真冬に行きました。雪が残っており、雨も降っていたので、隠れ岩まで行くのは大変でした。雨が降っているととても滑りやすく危険です。ただ、熊は冬眠しているので、その点は安心して登れました。隠れ岩の案内板の右側から、急斜面を登って行きます(木階段は腐ってますが残っています)。大変でしたが、登った甲斐はあります。2023年2月にも登ってきました。雪が残っており滑りやすく危険でした。が、やはり草茫々の夏よりはマシですね。
元亀元年1570年4月20日信長の朝倉攻めに際して、同名関係の浅井長政が離反し、朝倉方についたことに端を発します。北は朝倉、湖北からは、浅井氏に挟まれる形になり、丹後街道から近江に入り保坂から朽木街道から、京都の清水寺に避難しています。途中朽木領主朽木元綱の手引きで朽木城🏯に宿泊しています。朽木氏は、佐々木家の高島氏の子孫です。墓所は、近くの興聖寺になります。当初は朽木氏は浅井家に仕えていましたので、家臣の松永久秀や、森可成らに命じ匿うように、交渉をし、信長の家来になっています。家臣の長谷川茂正に命じ下市場、ここから1キロ南にあった圓満院で菓子、お茶にてもてなしています。その交渉の間に、信長の隠れ岩🪨に待機し、その後朽木城に宿泊しています。翌日京都まで案内しています。朽木氏には、その功績により、革袴、金の箸を与えています。今も現存し、安土考古学博物館に展示されています。レプリカは、朽木資料館にあります。この隠れ岩の上の頂に西山城🏯があり、標高は356メートルの朽木城の出城としての機能を果たしています。アクセスは、JR湖西線安曇川駅から、江若バス🚌30分下市場下車1.4キロ徒歩19分の位置にあります。
| 名前 |
信長の隠れ岩 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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話を聞くだけでは分からない、思っていたものとは全然違う隠れ岩でした。ここは、興味が有る方なら是非行って欲しいです!隠れた時の話も含めて考えると考察が止まりません。