袋井市・まむしづか城の歴史。
馬伏塚城跡の特徴
家康が高天神城攻略に築いた馬伏塚城跡の歴史があります。
袋井市指定文化財として、小高い主郭の遺構が楽しめます。
教育委員会の説明板が詳しく、見学に役立ちます。
横須賀城跡から、同じく家康が高天神城を攻略する為に築いた城、その原点である馬伏塚城(読みは[まむしづか] 城、又は[まぶせづか] 城の両方があるが、現在は[まむしづか] 城が一般的)へ来た。しかし、もうこの城はほとんど城としての遺跡は残していない。現状は本丸跡に諏訪神社があり、神社の入口に城址碑があり、周辺の田園地帯から見た時にその城跡の高まり(土塁や曲輪の跡)を確認できる程度である。だから観光者用の駐車場などある筈もなく、車は城址案内看板の近くの広めの路肩に停めた。それでも私がこの城を訪れたのは、私にとって意味のある城だからである。徳川家康の配下にあった高天神城の城主小笠原信興(氏助から改名、別名長忠、今川氏滅亡後徳川についた小笠原氏興の嗣子)は、天正2(1574)年武田勝頼の大軍により攻城され、家康の援軍が得られないと悟ったとき、勝頼の寛大な降伏条件を受け入れ、武田方に降った。信興は一万貫の所領を富士の裾野に貰い、他の籠城兵は武田に従うも、徳川に留まるも自由となった。その時徳川に留まった籠城の将の一人に大須賀康高がいた。浜松に帰還した大須賀康高は、家康により即座に馬伏塚城に配属され、この城が家康にとって高天神城の取戻しの為の最初の拠点(原点)となったのである。実際に家康が高天神城を奪取したのは天正9(1581)年の7年後であり、その間、家康は横須賀城を新たに築城したり、補給路断絶の為に高天神城を包囲する六砦をはじめとする20ヵ所に及ぶ城砦群を築いたりして、高天神城を奪い返したのである。何と用意周到、執念深いのか・・・。私はそんな高天神城再奪取の原点の城であったので訪れた。《2023.2.1訪問》
馬伏塚城跡(まむしづかじょう)所在地 静岡県袋井市浅名築城年 不明築城者 小笠原氏形態 平山城(標高10m・比高8m)遺構 土塁指定 袋井市指定文化財遠江小笠原氏ゆかりの平山城です。南北600m、東西160mの規模で湿地に突き出た舌状台地の先端にあります。
城跡としての遺構は殆んどわかりませんでした。小さな神社が有ります。
城というか砦?物見ができるちょっとした高まり(確かに塚!)でしたが周囲の雰囲気はそれなりに時代を感じることができました。横須賀城の狼煙とか見えるのかなあ。
2020年8月25日行って来ました。行き方はGoogleナビで馬伏塚城跡にセットすると行けます。駐車場は無いので路駐になりますが車の往来はほぼ無いのでギリギリまで寄せれば大丈夫です。歴史解説はネット引用しています。馬伏塚城は武田勝頼によって攻略された高天神城を奪還するための重要拠点となった城です。家康はこの城を改修して大須賀康高を城主にし、さらに横須賀城を築いて康高を城主にすると、馬伏塚城主には高力清長を任命しています。1581年(天正9年)に家康が高天神城を攻略して遠江を勢力下に置くと、その翌年に廃城となりました。現在城址は住宅地となっており、城址碑と土塁があります。
まむしづかじょう。戦国時代の1574年、高天神城が武田勝頼に攻略された後、徳川家康は馬伏塚城を改修して高天神奪還の前線基地とし、横須賀城を築いて攻撃の拠点としました。1581年に家康が高天神城を攻略した翌年には廃城となりました。現在では、小高い塚の頂きに小さな祠が祀られています。
武田軍が籠る高天神城を攻略するため、徳川氏により修築され、拠点となった城。城跡は本丸の一部を残す以外は整地され、水田や宅地となっている。本丸は土塁と堀の名残を残すのみ。
遺構がほとんど残っておらず、往時の姿を想像しにくい。駐車場はなく道路脇に自己責任で。
まむしづかじょう。武田勝頼の支配下となった高天神城を奪還する徳川家康の前線基地でした。
名前 |
馬伏塚城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.1 |
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案内看板はあるものの駐車場がないため通過😓神社前に廃墟がありバイクくらいなら?と一瞬おもったけどごく新しめの立派な住宅が廃墟になってるのが不気味でやめました😣すぐ近くの資料館にて城ジオラマ展示、オススメです!