古道の雄姿、青崩峠を歩く。
青崩峠の特徴
武田信玄が通った歴史的な青崩峠は道が険しいです。
車道は荒れていて駐車場からの徒歩が必須の地点です。
地質地形マニアにはたまらない、独特な峡谷の存在感があります。
武田信玄が三方ヶ原の戦いに向かうときに通ったとされる道。立派な石畳の道で 途中には武田信玄が休憩のため座ったとされる岩もありとても歴史が感じられる場所でした。
とっても!とっても良いところでした!3月の頭頃に来ました!パウダースノーが少し残る路面でした。⸜❄️⸝浜松側から登りました。15~20分も歩けば着きます。秋葉街道の風情を思う存分味わいながら。峠はテラスのようになっています。その隅っこに落書き帳があるので、訪れた方はぜひ記帳してくださいね!
標高1082mの青崩峠。かつて兵越峠を車で通過した際、青崩峠を一度訪ねてみたいと思っていたが、近くまで車で来る事ができ、そこから石畳のある塩の道を登って20分ほど。意外と簡単に来ることができた。古来より信州と遠州を結ぶ道で「秋葉街道」、「塩の道」とも呼ばれていた。戦国時代には武田信玄軍が遠州に侵攻する際にはこの峠を越えていったとか。馬🐴もこの峠を越えたと思うと、騎馬軍団の苦労がうかがえる。なお熊伏山方面へ少し登ると信州方面の渓谷眺望が広がるが、足元が砂れきのため滑りやすく気をつける必要がある。
険しい崖の上に峠があります。真下のトンネル工事も凄いですが、峠も凄いところです。
青崩峠(あおくずれとうげ)所在地 静岡県と長野県の県境訪問日 2023/10/20静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家と、長野県飯田市南信濃八重河内の県境にある、標高1.082mの峠です。峠越えの街道は、秋葉街道で火伏せの神として信仰を集めた秋葉神社へ参拝するための信仰の道、遠州灘の海産物を山国信州へもたら塩の道としても知られます。青色の岩盤が崩れている事が名前の由来で、一帯は中央構造線沿いの破砕帯で岩がもろくなっています。秋葉街道の歴史は古く、原始時代から往来があったとされ、文治2年(1186年)頃の「江儀遠山庄」(えぎとおやまのしょう)の伝承もあります。元亀3年(1572年)には、遠州の徳川家康の領地に侵攻する、武田信玄の軍が通過したことで有名です。峠からは、名前の由来となった「青崩れ」も一部ですが確認出来ます。この崩落斜面は、江戸時代(享保3年7月26日)に発生した「遠山地震」•(中央構造線を震源とした地震)で崩落し、青いガレ場が露出したと言う事です。ビュースポットは、熊伏山登山道を少し登った場所がおすすめです。
直下まで車道が延びているがかなり荒れているし駐車スペースが無いので、下の駐車場から20分くらい歩く。南側の眺望は良いが、北側を観るには数分熊伏山方面に登ると良い。
▼大河ドラマ「どうする家康」で、今川領へ侵攻前に武田信玄と徳川家康が三河との国境当たりの鬱蒼と茂る山中で会っていましたが、この青崩峠、信玄がここを超えて、家康の領土へ攻め入り、三方ヶ原合戦に至る国境です。▼まるで大河ドラマのその場面のような場所でした。▼そう思う一方で、標高が1082mもあるこの峠、かなりの難所ですし、良くこんな場所を3万近くの武田軍が超えたなと驚きました。▼私はかつて歴史ブログで、八王子の滝山城に小仏峠を越えて、武田軍の小山田信茂が横から攻めてきたことを「滝山城主は小仏峠を大軍が超えて攻め来れるとは想定していなかった」と書きました。▼しかし、この時の小山田の軍勢はたかだか1000なのです。それに比べて、この青崩峠を越えた武田軍は西上(上洛)作戦軍なので、3万近くもの兵数です。▼本当に、ここをあの三方ヶ原合戦で大活躍する武田の騎馬隊も超えたのでしょうか?ちょっと武田軍の機動力の凄さをこの峠に来て感じました。▼またこの道は「塩の道」としても有名で、江戸時代には茶屋があり、盗賊に襲撃されたとの記録もあるようです。▼偶然にもその場所で、陶器の欠片を見つけました。
国道152号線の分断区間が二箇所有るその一つが青崩峠落石が多いがギリギリ車で行けるそこから歩いて5分で県境の頂上にたどり着ける。武田信玄公もこの道を通ったと思うと感慨深いものがある!
右手に行くと兵越峠、左手に行くと青崩峠があるそうです。たまたま立ち寄ったのが夕時で、たまたま寒い日だったので行きませんでしたが。もっと早い時間で、温かい日にまた来てみたいです。とにかく自然が素晴らしいと思いました。
名前 |
青崩峠 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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現代にも残る古道。こんな険しい道を武田信玄らが行軍したと言うのは感慨深いです。