坂本龍馬とおりょうの思い出地。
本陣 伊藤邸跡の特徴
坂本龍馬とお龍が過ごした歴史的な邸宅跡です。
伊藤家は鎌倉時代初期からの由緒ある家柄です。
静かな雰囲気の中に龍馬ゆかりの井戸があります。
下関の春帆楼の近くにある史跡です。大名の為の宿泊施設ですが慶応3年(1867年)春に坂本龍馬と妻のお龍が此処に世帯を構えたと云われています。
伊藤邸跡ですが下関観光をする際に、見つけました。下関条約(日清講和条約)記念館のすぐ隣にあります。どうして来たかって、龍馬が亡くなったことを妻おりょうさんはココで知ったそうです!そんな事を知ったら行ってみたくなったんですよね☺伊藤家には生活の拠点としてお世話になっていたそうです!すぐ隣に、駐車場になった場所があります。そこに写真を吊る場所がありますので、伊藤家はココにあったんだろうと想像しました☺
日清講和記念館近くにある邸宅跡地ですが、石碑と立札を残す形で面影はありません。伊藤家は鎌倉時代からの名家だとの事で、代々の歴代当主は進取の気性に富み、開明的であったとの事です。なるほど、坂本龍馬と交流、支援されていたのも頷けます🍀龍馬を支援されたのは、伊藤助太夫と云う方だそうです。この方も白石正一郎と同様、新時代を夢みた方だと、思いを巡らせました。(最初、博文かと思っており、不勉強でした💦)
佐甲家とともに、下関の本陣をつとめた伊藤邸跡地です。伊藤家には、参勤交代のお殿様や江戸に参府するオランダ商館長などが宿泊しました。また、坂本龍馬は下関の拠点を伊藤邸とし、愛妻お龍とここで過ごしました。
おりょうさんが、龍馬の訃報を受けた地であることを知ると、感慨深いものがあります。~~~~~ 〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜伊藤家は鎌倉時代から下関屈指の名家。室町・江戸時代には港町下関の指導者的な地位にあり、この地に広大な邸宅を構えていた。室町時代は、下間の交通・流通などを掌握して朝鮮交易も行い、江戸時代には大年等として町政を司る。また、本陣を兼帯して九州諸大名の参勤時の休泊所となり、各藩の用達も行った。特に対馬宗氏とは前代から親密な関係にあった。伊藤家はオランダ宿として名高い。江戸に参府するオランダ商館長は、伊藤家と佐甲家の二つの本陣を下間の定宿とした。歴代当主は進取の気性に富み、開明的であったが、なかでも文化・文政期の当主杢之允盛永は、熱烈なオランダ趣味の人で、ヘンドリック・ファン・デン・ ベルグというオランダ名を名乗り、ソープ、プロンホフなどの商館長と親しく交際した。佐甲家に宿泊した商館医のシーボルトも杢之允から歓待されている。また、幕末の当主杢之助(静斎)は吉田松陰と交際し、助太夫(九三)は真木菊四郎や坂本龍馬を支援した。とりわけ、慶応二・三年頃の龍馬は伊藤家を活動の拠点としていた。近代初頭の明治五年六月、伊藤家は明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣としての最後の役割を終えた。
赤間神宮の少し手前にあり、ひっそりした場所にありました。事前に調べておかないと、見落としがちです。本陣伊藤邸跡は、伊藤家は藩政時代に赤間関の大年寄(おおどしより)を世襲し、本陣を兼ねていました。参勤交代の大名の他、江戸へ向かうカピタン(オランダ商館長)の一行や朝鮮通信使も宿泊し、彼らと地元住民らの交流も伝えられています。幕末には、下関を訪問した坂本龍馬がしばしば宿泊して、長州藩士の印藤のぶる(いんどう)のちの豊永長吉(とよながちょうきち)らを通じて長州との接近をはかった場所だそうです。
ここが跡地なんですね出来れば図に現在地があると邸宅の大きさ想像できると思うけどな~
坂本龍馬がお竜さんと過ごした場所。龍馬と懇意にしていた伊藤家から借りた自然堂、伊藤邸跡。今は何も無い駐車場、色々と寂しく感じる場所。
たまたまみつけた龍馬とお龍ゆかりの地。
| 名前 |
本陣 伊藤邸跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
春帆楼がある高台のすぐそば(麓)にあります。看板と碑があるだけですが、歴史のいろんな場面場面が下関のこの狭いエリアに集まっているのが面白いですね。