近代秋田を象徴する義堯公。
佐竹義堯(よしたか)公銅像の特徴
千秋公園の中央に位置する、歴史的な銅像があります。
近代秋田を開いた藩主、佐竹義堯公の姿を再び見られます。
戊辰戦争の激動を生きた義堯公を偲ぶために復元された名所です。
久保田城址にある佐竹義堯公の銅像です。高さ3.6m、台座を入れると約8m。公園のシンボルの一つです。義堯の没後に旧家臣が中心となって1915年に建設されたのが初代の像でした。しかし太平洋戦争激化による金属類回収令(金属供出)により1944年に像は供出され台座だけになってしまいます。この時のことを新聞秋田魁新報は伝えています。引用です。「郷土の先輩、偉人の銅像が相次いで応召、現在までに寺院の鐘、銅像が兵器となって郷土を鹿島だっている。これに続いて勤皇秋田の表徴として敬われている、本丸の佐竹義堯公の由緒ある銅像もいよいよ近く応召し、武器となって前線に駆け付けることになった」戦争で失われた佐竹義堯公像でしたが、秋田市政100年記念にあたる1989年、同じ大きさで復元されました。作者は不明です。今は秋田の街を見下ろしています。
江戸時代最後のお殿様像。
秋田藩最後の藩主「佐竹義堯公」です。本丸広場に 堂々鎮座しています。
太平洋戦争の供出で失われた像を前後に再現したものとのこと。名門佐竹氏は地元秋田の方々の誇りなのでしょうね。
2024.9.24.訪問【現地説明板より】近代秋田を開いた秋田藩最後の12代藩主佐竹義堯(さたけよしたか)公を敬慕する旧家臣が中心となり戊辰の役後50年に当たる大正4年(1915年) 公の銅像をここに建立した遺憾ながらこの銅像は太平洋戦争のさなか国の金属回収策のためその姿を消してしまった市民有志はこれを惜しみ昭和28年(1953年)旧銅像の原型として残されていた小型像を奉安してわずかに往時を偲んでいたこのたび市制百周年(1989年)を迎えその記念事業として完全なる姿で往年の義堯公銅像に復元したものである平成元年(1989年)7月12日秋田市長 高田景次【ウィキペディアより】佐竹義堯(さたけよしたか)は出羽国岩崎藩の第7代藩主、のちに出羽久保田藩十二代にして最後の藩主生誕 文政8年7月27日(1825年9月9日)死没 明治17年(1884年)10月23日享年60(満59歳没)喘息の持病あり藩医藤井正亭が蘭学の知識を取り入れて改良した末に完成したのが現在にも続く「龍角散」である【秋田市ホームページより】「千秋公園佐竹義堯公銅像」近代秋田を築いた最後の藩主戊辰戦争では新政府側に属して戦った明治維新の激動期を生きた象徴的な人物大正4年(1915年)義堯公の徳を偲んで戊辰勤王記念銅像建設委員会によって本丸に建立される昭和19年(1944年)太平洋戦争により解体撤去台座だけ残る昭和28年(1953年)佐竹家から小さな銅像が寄贈される(原型として残していた小型像)【筆者註】おそらく幼少期私はこの小さな義堯公銅像を見ているとても立派な台座なのに小さな銅像がちょこんと乗っかっていたイメージがある確かにアンバランスで違和感があった秋田市民により「小さな銅像はさびしいぜひ復元を」との声が多くよせられ平成元年(1989年)戦前のものと同じ大きさで復元された。
戦国時代好きな人からすれば佐竹氏といえば初代ですが、幕末の佐竹義堯公の像が建てられています。調べたら戊辰戦争の頃は周りを佐幕派に囲まれていて大変だったようです。市民にも親しまれているのでしょう。
立派な銅像です。現在のものは1989年のもので、初代は太平洋戦争のさなか金属回収策によって姿を消してしまったとあります。
久保田城址にある佐竹義堯公銅像は、秋田市の中心部にある千秋公園内にある観光名所です。佐竹義堯公は、久保田藩の第12代藩主であり、佐竹義堯公は、地元の人々から「義堯公」と呼ばれ、親しまれています。
佐竹家最後の城主の銅像です。
| 名前 |
佐竹義堯(よしたか)公銅像 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.akita.lg.jp/kurashi/doro-koen/1003685/1007159/1009758/1007265.html |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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オリジナルは戦争中に国に回収されて1989年に復元にしたそうです。