江戸の歴史感じる延命寺にて。
浄土宗 豊国山 延命寺の特徴
江戸時代の小塚原刑場跡に位置し、歴史を感じることができる場所です。
高さ3.6mの迫力ある首切り地蔵を一目見ることができる貴重なお寺です。
南千住の日比谷線南改札から徒歩300m、アクセスも便利で訪れやすいです。
延命寺は浄土宗のお寺で、山号は豊国山昭和57年に小塚原回向院から独立する形で、小塚原刑場跡地に開山しましたお寺の名前「延命寺」は、首切り地蔵が延命地蔵尊であることに由来していると言われています。
南千住日比谷線通勤時代 いつも見ていたお地蔵さま宗教法人のなせる技と当時思ってスルーしてましたが、とんでもない!小塚原刑場の霊を弔う歴史あるお地蔵さまだったのですね。東日本大震災で左腕落下と憂き目を見たようですが、いつまでもこの地で人人の安寧を見守ってほしいですね。
江戸時代には小塚原刑場があり、品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場として、明治時代始めに廃止されるまでは、磔(はりつけ)・斬首などが執行されていたとの事。刑場の入口にあった「首切地蔵」は、4メートル近くもあり、刑死者の菩提を弔う為、寛保元年(1741)に建てられました。明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露天や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。この地蔵は、現在も無縁となった人々の霊を静かに見守っているとの事です。
素敵なお顔の体の大きな地蔵尊で、綺麗に清掃されていました。この地蔵尊は江戸時代から明治の始めまで江戸近郊において、はりつけや獄門、火罪、斬罪などを行うお仕置き場として20万人もが処刑され、その刑死者や無縁仏を弔うために建てられたとのこと。JR南千住駅西口を出て左手を線路に沿って真っ直ぐ歩くと2分程で到着します。約4mの高さで27個の寄せ石作り、2011年の東日本大地震により左腕が落ちたり胴体がずれたりし荒川区で第一期修復工場実施とある。
御朱印頂きました。丁寧に対応していただきました。東日本大震災でお地蔵さまが被災されたとのことで修復支援の看板がありました。
延命地蔵 (地蔵菩薩) 、またの名を“首切り地蔵”と呼ばれる高さ3.6㍍の座像は、山谷地域の中心点である「泪橋交差点」から北へ300㍍の東京メトロ日比谷線の南改札の前ある「延命寺」の中に入れば誰でも見ることが出来る。この大きな地蔵は、27個の花崗岩の寄せ石作りの像で、元は南千住の貨物線の南側辺りにあったものを、明治28年 (1895年) 鉄道敷設工事の際に現在の地下鉄日比谷線とJR常磐線のガードの間に移された。平成23年(2011年) 3月11日におきた東日本大震災後、首切り地蔵はダルマ落としのように胴の部分がずれ、頻繁に続いていた余震の倒壊防止のため一時解体された。すぐ近くにあった小塚原 (こつかっぱら) 刑場は、江戸時代からお仕置き場として斬罪・獄門・火罪・磔 (はりつけ) などの重罪の刑が執行され、埋葬された死者の数は20万人にものぼると言われているが、その受刑者の菩薩を弔うため寛保元年 (1741年) に地蔵菩薩が造立されたという。お仕置き場は、刑罰や無縁、埋葬などに止まらず、江戸時代からペットの供養、名刀の試し切りや腑分け (解剖) に至るまで実に多彩な役割を明治期まで担った。実は、山谷地域でもある南千住2丁目から5丁目に掛けての場所は、この地で日本最初の西洋解剖の翻訳書「解体新書」 を作るきっかけになったことを考えると日本の近代医学のスタートの地だったともいえるのでは?また、首切り地蔵のスグ脇には三角点 (南千住 1.51米 三等) がある。そのことは地元でも知る者は少ない。そして最後の写真は、刑場が廃止された年、明治6年 (1873年) 7月の画像で、よく見ると 右側にまだちょんまげを結っている人がポーズをとっている姿が見える。
小塚原刑場に隣接する寺院受刑者供養のため創建されたと思われがちですが、刑場の方が後からの設置です。
パワー貰えます。
お坊様がとても分かりやすく説法してくださるので、愛犬とのお別れも区切りがつけました。
名前 |
浄土宗 豊国山 延命寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3807-0897 |
住所 |
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HP |
https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/minamisenju003.html |
評価 |
3.9 |
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この地には刑場・小塚原刑場があり、江戸時代から1873年の刑場の廃止まで20万人以上が処刑されたと言われています。刑死者の亡骸は軽く土をかぶせた程度の処理しかなされず、野良犬や虫が湧いて陰惨な有様だったそうです。1741年に大きな地蔵が建てられ、刑に処された人々を弔っています。かつては隣接する回向院の一部でしたが、常磐線で分断されて飛び地になっていました。1982年に飛び地部分が延命寺として分離して今に至ります。